2月は真冬から春の訪れを感じる季節

そのため春を告げる鳥である

鶯が季語となっている。

 

鶯、鶯の声、鶯笛(おうてき)、

初音、春告鳥(はるつげどり)、

 

「鶯」「鳥」のつく禅語としては、

春暖鶯声滑

(しゅんだんにして そうせいなめらかなり)

 

鶯 逢春暖 歌声滑

(うぐいすは しゅんだんにそうて

 かせいはなめらかに)

 

春入千林 処々鶯

(はるせんりんにいる しょしょのうぐいす)

 

花閑鳥自啼

(はな かんにして とりおのずからなく)

 

野花 啼鳥一般春

(のか ていちょう いっぱんのはる)

 

このうち「花閑鳥自啼」は、

よく読むと、不思議な禅語なんだな。

 

それは、花は静物で、もともと

音をたてるものではないので

わざわざ「閑」にして、という

ことわりを入れる意味はないはず

 

ここで、「閑」の文字は禅語では、

「暇なこと」「無駄」ではなくて、

事がないこと、「物事に囚われない」

ことをいう。

 

「閑事」というと、直解すると、

必要のないことということだが、

事がないということは、言い換えると

心が囚われるような悩み事などが

ないこと、

結果として、

ものに囚われない心境で、静かに

落ち着いて過ごすことを意味する。

 

「花閑鳥自啼」に話を戻すと、

私は前段を「はなは かんにして」と

読んだが、

「花しずかにして」鳥自ずから啼く、

とも読める。

 

こう読むには理由があって、これを

禅語の「閑」の字の意味どおりに

読んでしまうと、

「花がものに囚われない心境にある」

ということになってしまって、

禅語とはいえ、余りにも擬人化しすぎて

荒唐無稽な印象だから、

「花は静か」と読んだのではないかな。

 

そう読んだとすると、

(音を立てず)静かに花が咲いている

ところでも、鳥は自ずからやってきて

囀る(さえずる)ものだ

ということになる。

 

これでは全体として、

花のそばで鳥が鳴いたという現象を

字句にしただけで、何を言いたいのか、

そこにある含意が分からなくなる。

 

先ほど、

「はな かんにして」と読んだのは、

「花が静か」なのではなくて、

ここでは、

「花」と「閑」を切り離して、

これを読み込んで、

花を愛でる、花とともにある

「人が静かな心境にある」ということを

言いたいのではないかと読んだからで、

 

花を愛でていると、

必ず(いつも)春の鳥がやってきて、

そのさえずりを聞いていると、

(ハーモニーのように心に響いて)

物静かな穏やかな気持ちになる

くらいの意味に理解した。

 

禅語は、それを解釈する人によって

巾が出ることは当然とされているので

多分そういう理解があっても許される

ことだろうと思う。

 

今年は、早々梅が咲き始めたが、今日は

蠟梅(ろうばい)