文章を書く才能と話す才能とは、筆者が述べているように、両立することは極めて稀であります。

ある著書を読んで感心し大学でその授業に出たのですが、あまりの話の下手さに驚いた経験は幾度もしました。

 

この紫字は斎藤雅久「続・かつて「チョイス」という名の英語教材があった」p14より抜粋した。

 

 

 

自分の中では圧倒的に「書くこと>>>>>話すこと」である。

あくまで「自分の中で」だけだが。

 

他人と比べて書くことが優れているとは特段思わない。

しかし<自分の中では>書くことは話すことより圧倒的に優れている。

こういう考え方を経済学では「比較優位」というらしい。

 

何しろ私はカフェで「アイスティー」と注文しても「アイスコーヒー」が出てくることがしばしばなのである。(それでも文句を言わないが)

そもそもコミュ障(コミュ症)だから、マトモに会話にならない。

よってこの年末年始は忘年会・新年会はゼロである。

 

カロリーゼロ、糖質ゼロ、年末年始の人付き合いゼロ。

同窓会なるものに人生で参加したこともない。

どこで会合が行われているのかも知らない次第である。

これこそ神聖にして真正なる非リア充(非リア)である。

 

しゃべるのが上手ければ、大学生時代に家庭教師とか塾の講師とかやってもよかったのだろうが、カフェで「アイスコーヒー」をまもとに注文できない人間が他人様に何を教えることができようか。

 

そもそも明治大学2年連続不合格なのだから、家庭教師としてのオファーもないであろうし、塾講師としての採用もなかったであろう。

東大とか慶応とか早稲田とか上智とか立教とか、そういう大学がどこかに存在するらしく、こういう大学の学生様がカテキョになれるらしい。

 

大学時代にしたアルバイトは卵のパック詰め工場であった。

卵のパック詰め工場では喋っていることが悪であり、黙々とベルトコンベアーに向かっているのが正しい姿勢なのだ。

仕事によって求められる姿勢が変わり、求められる資質も変わる。

ただそれだけだ。

 

「続・かつてチョイスという名の英語教材があった」は英語教材である。

英語の本文には

 

the worst company in the world(この世で一番つまらない話相手)

 

と言う表現が出てくる。

私のことだ。

 

the worst company in the world(=私)はリアル世界で誰かとぺちゃくちゃ喋るのではなく、日本の片隅でブログ記事を書きなぐりまくっていれば良いのである。

ブログは読みたくなければ読まなければいいだけだから、読み手に選択権がある。

 

このブログの読み手の皆さんがもし私に会えば印象はだいぶ違うだろう、しかも悪い方に。

別にそれは珍しいことでも恥ずかしいことでもなく、最初の引用の通り往々にしてあることなのだ。

 

非リアに光あれ!

 

 

 

<関連記事>

 

私がカフェで注文と違うものが出てきても文句を言わない事は「店で偉そうに振る舞うバカ(ビートたけし「バカ論」)」にて触れました。

 

 

 

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↓「かつてチョイスという名の英語教材があった」をもとに結婚のことを書いた記事↓