政権を朝廷に返上し、将軍職の辞任を願い出た慶喜は、幕府に代わる次期政権が成立し、彼の処遇を決定する時まで表立った行動を差し控え、政局の推移を観望する外ない立場に置かれていた。一方の朝廷は突然返上された政権を持て余し、1万石以上の全大名に上洛を命じて次期政権のあり方を論議させようとした。天皇親政あるいは摂関制を復活させて自ら国政を担当する意欲と能力を欠く公家たちは、ただ彼らの身分が維持されることのみを欲して、慶喜が返上した政治権力を再び武家に委任する道を選んだのである。

 

徳川家の親藩および譜代大名の多くは、天皇の命に従って上洛することは徳川家との君臣の絆を捨て、自らを「王臣」と化す行為だとして続々とこれを拒否、朝廷から賜った官位を返上したいと願い出た大名家の数は94家に上ったという。彼らは大政を奉還した以上、慶喜が京都に留まる必要はなく、江戸に帰って関東に「割拠」し、叛逆者の薩摩、土佐、芸州、長州の四藩に対峙すべきだと主張し、対決姿勢を鮮明にした。これに慶喜は困惑した。彼は、15万もの大軍をもって攻めたにも拘わらず、僅か数千の長州1藩に為す術もなく敗退した幕府が今さら朝命に背いて関東に割拠したところでいったい何ができるというのか、いたずらに薩長に倒幕の名分を与え、土佐、芸州に止まらず形勢を観望する多くの藩を敵方に押しやる愚を犯すのみではないか、と彼らに問い返したかったであろう。ここは朝廷が招集する諸大名会議の成り行きをじっと見守るべきで、あえて朝敵の汚名を着る暴挙は厳に慎まねばならないのであった。

 

朝廷は、全大名を上洛させる計画が親幕派大名の抵抗に遭って頓挫した後、尾張、越前、薩摩、宇和島、土佐、芸州、肥前(佐賀)、備前(岡山)の8潘を特に指名して藩主あるいは名代の上洛を命じた。その内、越前、尾張は徳川一門、土佐と芸州は共に大政奉還を建白した慶喜支持派であり、備前藩主池田茂政(もちまさ)は慶喜の実弟、肥前藩主鍋島斉正(なりまさ)は特に明確な政治主張の持主とはみなされなかった。そうすると警戒すべきは宇和島の伊達宗城、薩摩の島津忠義に限られる。かつて二度までも彼らの主張を退けた慶喜は、この二人なら説得は充分可能と見た。その結果、8潘に公卿たちを加えた新政府が創設されるなら、大勢は宇和島、薩摩の反対を抑え、慶喜を新政権の指導者に任命する方向に傾いてゆくだろう、と彼は見込んだのである。

 

西郷、大久保らの討幕派は、いかなる手段を用いても慶喜の復権を絶対に許さない決意であった。何といっても彼は260余年に亘ってこの国を統治してきた徳川家の当主であり、二度に亘って久光や宗城等の要求を斥け、単身宮中に乗り込んで孝明天皇から攘夷の放棄を取りつけた政治的剛腕の持主なのである。これほどの人物を新政権の指導者の座に就かせてしまっては、大政奉還の実質は外ならぬ慶喜自身の手によって骨抜きとされ、旧態依然の幕府政治が新たな衣をまとって継続することは必定と見なければならない。それは本質的に封建領主である藩主たちにとっては、彼らの特権が保全されたままで新たな政権に参加する道が開かれるという点において、むしろ望ましい結論であっただろう。だが、朝敵の汚名を被(こうむ)って征討軍を差し向けられた長州藩に全面的に加担し、幕府軍と戦うための武器調達を支援し、倒幕の盟約を結んで政局の裏面で数々の反幕活動を行ってきた西郷、大久保らの討幕派は長州藩と共に自らの存亡を賭けて幕府打倒の戦いに突き進む決断を下し、すでに退路を断っていた。事ここに至れば久光の不在を幸いに、大軍を率いて上洛した忠義を説得してクーデターへの同意を求め、薩摩藩4千の武力を背景に一挙に勝負を決する政変を挑む外に道はないのであった。

 

慶応3年(1867年)12月1日、西郷、大久保、それに大久保が廷臣の中でただ一人の気骨ある同志と認めて計画に招き入れた岩倉具視らは、朝廷が招集する藩主たちの会議の場を「王政復古」を宣言するクーデターの舞台とすることを決定し、綿密な計画を練った。まず軍事力を発動して御所の内外を遮断する。次に外界から隔絶された御所内で「王政復古の大号令」を布達する。そして長州藩主父子ならびに岩倉具視、三条実美らの処分解除、摂政、関白、幕府等々の廃絶を布達、さらに総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職の設置と新任人事を発令し、徳川慶喜に対し辞官・納地の内命を発する、というものである。辞官とは慶喜の官位を一段階ほど下すことを言い、納地とは徳川家直轄領地の半分に相当する200万石を新政府に差し出させるということである。慶喜を新政府に加えるか否かの決定は辞官・納地が実行された後に協議し、会津の松平容保、桑名の松平定敬には帰国を命じることとした。

 

クーデターの決行日は5日と決まったが、その後西郷と大久保が土佐藩の後藤象二郎を訪ね、計画への参加を要請したことから彼の要求を容れて8日、さらに9日に延期された。土佐藩主名代の容堂が国元の政情不安に足を取られ、京都への到着が遅れるからであった。後藤は独断でクーデターへの参加を決めたが、容堂の到着以前に決行することだけは何としても避けねばならない、ぎりぎりの綱渡りを強いられたのだ。だが容堂は5日になっても到着しない。追い詰められた後藤は6日、政変勃発の可能性を春嶽に告げた。彼は春嶽に容堂の到着まで決行の再延期を薩摩藩に申し入れさせようとしたのだが、春嶽はこれを慶喜に伝えた。慶喜は驚愕し茫然自失の体だったというが、何の策も執らず事態を静観する。政変を前に諸勢力が様々の思惑を秘めて慌ただしく動いた12月8日夕刻、ようやく容堂が宿舎に入り、後藤の報告を聞いた。彼は怒声を発し、こう言った。

 

島津なに者ぞ。これほとんど天子をはさんで四方に号令するの前兆なれ。(以上、井上勲著『王政復古』より)

 

島津とは何者か。まるで天皇を擁して全国に号令する前兆ではないか、ということである。政変前夜の京都は殺気を孕んで暮れてゆき、ただならぬ緊張の内に12月9日の朝を迎えるのだ。