「ただ一人サイの角のように進め」 | 仏光さんの心の相談室

「ただ一人サイの角のように進め」

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今日は木曜日でジムはお休み。昼休みはヘアーカットに行ってきました。今日は他に仕事以外は何もしませんでした。だから筋肉はお休みですね。考えてみると、私は毎日自分の仕事場と、ジムと、家と、ゲストハウス以外にほとんど行っていません。朝ゲストハウスで瞑想修行をして、それから仕事場に行って、昼休みはジムに行って、午後も仕事場に居て、夜は家に帰るか、ゲストハウスに泊まるかです。

 

ほぼ毎日そうなのに、全く飽きるということがありません。その中で色々な経験があり、色々な学びがあるのですね。それは私のところに色々な人が来られるからです。そこに様々な出会いがあり、良いことや悪い事があり、経験があり、学びがあるのです。毎日同じ人が来るのであれば、また飽きるのかもしれませんが、常に誰か初めての人が来るので毎日新鮮なのでしょうね。

 

その毎日の出会いの中でいつも気付く事なのですが、私は大多数、マジョリティーとは違うということです。その違いの根本的な部分について考えてみた事があります。それは言語能力とか、お祓いの能力とか、生理学的な知識と技術とか、そういう表面的なものではなくて、根本的な違いについて「なるほど」と思ったことがあります。

 

それは多くの人と違うのは、自分の基本的な生き方の基準をどこに置いているのかが違うのです。多くの人は自分が属する人間社会に基準を置いています。自分が大多数にどう見られるかとか、どう思われるとか、仲間はずれにならないかとか、そういう大多数の社会の中で遜色ない自分が良いという基準です。

 

特に日本の場合は普通に人からどのように思われているのかがとっても気になります。「自分が属する集団のみんなからどう思われているのか?仲間はずれにされないか?」が自分の言動の基準になっています。だから「みんながそうするから自分もそうする」「人に悪く言われないようにする」「仲間はずれにされるととっても辛いから大多数の中に入る」などの思考パターン、行動パターンが生まれます。

 

そして「多くの人に支持されると自分は正しい」、または「多くの人と同じであれば自分は正しい」と思うのです。だから自分が支持されるように相手の心の動きや集団の雰囲気も一生懸命読みます。ようするに自分の基準が社会や集団の基準の中にあるのですね。そこが私は根本的に違うのです。私は多くの人が言っていることが全部正しいとは全く思いません。

 

私は自分の基準を多くの人の中ではなく、自分が学んだ真理の中に置くようになりました。これは私なりの仏道修行の結果だと思います。社会に基準を置くと、もし戦前の日本のように軍国主義になれば「お国のために死ぬことが正しい」となって、みんな社会がそうだから自分もそうするになるのです。そして立派にお国のために死ぬと「軍神」などと呼ばれて賞賛されるのですね。実際にこれは私達の歴史の中で起こった歴然たる事実です。

 

宇宙の真理に基準を置くと「戦争はできるだけ回避して人同士が殺しあうなどという愚かな行為はしてはいけない」になります。だから周りがどうであれ「戦争反対」になります。そして非国民になって刑務所に送られます。周りはみんな「お国のために・・・・」が正義で正しく、戦争回避は不正義で間違いになるのですね。だから私みたいな人間は犯罪者になって牢獄に入れられます。

 

そしてこういう社会の基準はまたコロコロ変わるのです。社会に基準を置く人はそのたびに社会に合わせて右往左往するのですね。一番分かりやすい例は、戦争前、戦争中、戦争後に刑務所に入った人は全部違います。戦争前、戦争中に英雄だった人は、戦後は戦争犯罪人になって刑務所に入りました。昨日まで「畜敵米英」と言っていた人間が、今日からは進駐軍に「ギブミーチョコレート」になるのですね。これだけ人間の社会の基準というのはコロコロ変るのです。

 

私は周りにどう思われているか?とか、自分が周りと比べて遜色ないか?とか、仲間はずれにされないか?とかは、心の奥底から全く気になりません。もし私のことが嫌いという人が居たら「それはそれは残念でしたねぇ。あなたが・・・」と思います。それは私の基準が社会の中に無いからですね。そんなコロコロ変るものに私は自分の基準を置く事はできません。

 

自分が学んだ真理に照らし合わせてどうか?が私の基準なのですね。だから私は大多数がどうであれ、大多数とは違うのだと思います。ただこれを突き通すには大変な勇気が要ります。人から奇人変人扱いされて仲間はずれになるかもしれません。もちろん陰で悪口も言われます。大多数と一緒に流されている方が楽でその場は安全なのです。でも私は例え仲間はずれにされたとしても、自分が真理に合っていさえすれば全然気になりません。寂しいとか嫌だとかすら思いませんね。そんな事はどうでも良くなります。

 

お釈迦様は「ただ一人サイの角のように進め」と説いています。私はこの言葉がとっても好きです。そしてこの言葉を思うたびに自分が正しいと信じる道を歩く勇気が湧いてきます。社会に基準を置くというのは、自分自身の中に信念が無くなるということです。社会の信念が自分の信念になりますから。そしてその社会の信念は時間と共にコロコロ変ります。軍国主義になったり、平和主義になったり色々忙しいのです。

 

中には社会に合わせることが信念という人も居るかもしれませんが、そういう人はいつも多数派の中に入って安心しようとしているだけです。それを信念とは言いません。結局自分の損得だけにこだわると信念などどうでも良くなります。得すりゃ良い訳ですから。

 

信念を貫く生き方というのは結構しんどい時もありますが、私は自分に納得が行くのでとっても良い生き方だと思っています。「まあまあそんなこと言わずに周りに合わせながらうまいこと・・・・」が世の中の大多数ですが私は嫌ですね。

 

そんなことしなくても真理に基準を置いていれば、社会で生きていくのに全く何の支障も感じません。それより自分が自由自在で生きていてとっても気持ちがいいです。自分が何処に基準を置いて生きているのかを見直すことも納得の行く人生を送るためには大切だと思いますよ。私は「ただ一人サイの角のように進め」でこれからも生きて行きます。

 

合掌

 

仏光

 

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