あるがままに見る「正見」 | 仏光さんの心の相談室
2019-04-07 21:38:33

あるがままに見る「正見」

テーマ:仏道修行

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今日は日曜日で仕事も筋トレも休み。でも昼から御殿場にあるゴールドジムという筋トレのメッカみたいなスポーツジムに1時間ほどドライブして見学に行ってきました。それは水曜日に筋トレの師匠である上海のおじいさんが「一度で良いから見学に行きなさい」と言われたからです。実際に言ってみると色々なトレーニングマシンやダンベル、バーベル類が本当に充実していました。また凄い身体をした人達がトレーニングしていましたね。

 

もっと驚いたのは、もう上海に帰ったと思っていたおじいさんがそこでトレーニングしていたのです。こんなところでまたお会いするとは思っていなかったので、お互い驚きました。僕がちゃんと見学に行ったので上海のおじいさんも嬉しかったみたいです。まあ時間的にここにはトレーニングには来れないと思いますが、もっと真剣にトレーニングしようと思うのならこういうところでトレーニングしなければならないのだろうなと思いました。

 

まあ普通の人ならば絶対こういうことを60歳を越えて真剣に考えないと思いますが、私は日曜日だけでもトレーニングできるかなとちょっと考えました。元々私は常識とか良識にとらわれるのが子供の頃から嫌いです。もちろん常識や良識の無い人はもっと嫌いですが、常識や良識にとらわれるのが先天的に嫌なのですね。

 

常識や良識にとらわれていると、物事を常識や良識のフィルターを通して見るようになるので、あるがままの真理が分からなくなるのですね。例えばお祓いで目が見えなかった人が見えるようになったとします。常識や良識にとらわれて人生を生きている人は、こういう事が起こると困るのです。霊とかお祓いは胡散臭いものとして処理しなければいけないのが今の日本の社会では常識であり、良識ですから、実際に「お祓いで目が見えるようになりました」では困ってしまうのですね。

 

そこで「そういう人は心にトラウマがあって目が見えなくなっているのだ。そのトラウマが何らかの理由でなくなったから目が見えるようになった」と一応その人の常識や良識に基づいた理由をつけるのです。そういうところに事実を捻じ曲げて落とし込むと安心できるのですね。でもこれでは実際に起こっている事象をあるがまま見ていないことになります。昔、禅の修業をしている時に、そこで禅の老師となっていた人がそういうことを実際に言っていました。

 

私は「これでも禅の老師か?」と唖然としましたが、元公立高校の校長をしていたその人はそれが常識であり、良識であると思い込んでいるみたいでした。まあ私がそこで禅の修業をやめたのもこういう輩が老師になっていたのも理由の一つです。世の中の常識や良識をきちっと身につけるのが禅の修業だくらいに思い込んでいる様子でした。これでは生命の何たるか、心の何たるかが分かる訳が無いのですが、本人は大真面目でしたね。「このおっさんは老師と呼ばれているけれども、本当に何も真理が分かっていない!」と思ったものです。

 

まあもう少しで私は大切な一生をそんな程度の禅の修業で無駄にするところでしたので、本当に危なかったと思います。だから禅道場で色々おかしなことを言ったり、したりしてくれる先輩や老師が居て、逆に私は助かったのですね。でも今でも「本当に良い人だな」と思う人が何人も何も知らずに、またまじめであるが故にまだそこで修行をしておられるのでちょっと複雑です。

 

私はそういうちゃんとしていない先輩や老師のお陰で、縁があってちゃんと真理が見えて真理と共に生きる本物の仏道を密教の瞑想と共に進む事が出来るようになったのです。それが実際に毎日多くの困っている人のお役に立つことができた仕事の結果に結びついているのですね。お題目で「衆生済度、人を助ける」などと言っているのとは訳が違うのです。まあこれも災い転じて福となるですね。

 

お釈迦様はこの世の苦しみから逃れる八つの正しい道である「八正道」の一番最初に「正見」を挙げています。「正見」とは正しく見るという意味です。このお釈迦様が言う「正しく見る」とは自分のフィルターを通さずに物事をあるがまま見るということです。だから目が見えない人がお祓いで見えるようになったことを、「これは心のトラウマが・・・・」などと何とか理屈をつけて世の中の常識、良識の範囲内に収めようとしているのは、もう既にお釈迦様の八正道の「正見」から外れているのですね。物事をあるがまま見ていないのです。

 

物事をあるがまま見ないとあまねく宇宙に存在する「真理」というものが見えてこないし、自分のものとして得る事もできません。あくまで本に書いてあることを文字や観念で「真理」として頭で理解しているだけなのに、自分のものとして得たと思い込んでいるのです。だから実際に困った人を前にして何もできないし、ましてやその人をその場で助ける事もできません。言葉、観念、思い込みの「真理」はただのお題目であり、何の役にも立ちません。自分の病気ですら自分で治す事もできません。自分が救われていないのに、人を救う事はできないのですね。

 

お釈迦様が「正見」を八正道の第一に挙げているのもよく分かります。常識や良識は社会で遜色なく生きていくのには大切ですが、それだけでは真理に即した人生を歩むには全く足りないのです。また真に「真理」を理解するのに常識や良識が邪魔になったりもします。だから「自分の考えや思い」というフィルターを通さずに物事をちゃんと見る訓練を毎日心がける事が私は大切だと思っています。

 

いつも私は人がどう言おうとも、「あるものはあるし居るものは居る」と目の前で起こる事実を霊障であろうが何であろうが、あるがままに見て言っているのですね。人からどう思われるなどというのは私にとってはどうでも良いことです。物事をあるがままに見る「正見」は大切な仏道修行の一つだし、「正見」を心がけることにより自分がもっと真理に近くなります。それが人生の苦から自分を救い、真に意味のある自分の人生に繋がっていくのですね。なるほど八つの正しい道の第一になるのですね。最近その真の意味がよく分かるようになりました。ありがとうございます。

 

合掌

 

仏光

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