本来の自分とは、本来の指導者とは・・・ | 仏光さんの心の相談室
2018-04-15 23:35:39

本来の自分とは、本来の指導者とは・・・

テーマ:人格、人間力

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今回のブログはちょっと長くなります。今日は日曜日で坐禅と合掌瞑想の修行をしました。その時にまたふと気付いたのですが、この広大な宇宙空間で命がある生物が居るのが分かっているのはこの地球だけで、他の星はガスや岩石などでできていて、メチャクチャ暑いか寒い気候で、多くの星は空気すら存在していなくて、もちろん命がある生物が居る様子はありません。

 

まあ宇宙空間でもこの地球は奇跡的な存在なのですね。その地球でバクテリアやウイルスに生まれることなく、馬やカバに生まれることなく、人間として生まれたのです。今科学的に分かっている範囲では、広大な宇宙空間で宇宙というものを認識できるのは人間だけなのです。その人間として生まれて、花や雲や山や海や星を眺めて、それでも「私は不幸です。」となれば、この宇宙空間で幸せになれる所などないのですね。他の星はとても私たちが存在できる環境ではありませんから。ガスや岩石ですから。ということは宇宙は無限大ですから、この地球で幸せになれないと無限大に幸せになれないのです。

 

この広大な宇宙空間で人間として生まれるのは、殆どワンチャンスなのですね。この天から与えられたワンチャンスを活かさない手はないのです。私たちの頭の中に構築されている世界観というのは、大概が人間社会のことで埋め尽くされています。これはあまりにもちっぽけな世界観なのです。そのちっぽけな世界観の中で、自分は嫌だ、嫌いだ、不幸だ、あいつが嫌いだ、金持ち、貧乏、偉い、偉くないとやっているわけです。

 

もっと大きな世界観を持つと、人間として存在するメチャクチャ希少なワンチャンスを私たちはこの広大な宇宙空間で与えられている事に気付きます。これは人間として生まれるだけで奇跡的なことになります。そしてこの地球という星は他の星に比べるとまるで極楽のような環境です。NASAの望遠鏡や探査機で映し出される他の星の風景や気候は人間にとってはまるで地獄のようです。火星探査機から送られてくる映像を見て、「一回見に行っても良いなあ」とは思いますが、「私はあそこに住みたい!」とは絶対に思えません。

 

私たちはもっと自分の存在の大切さに気付くべきではないかなと思うのですね。もう一度自分の周りの景色、自然を見渡すと「やっぱりこのような星は無いな」と思うのです。もちろん地球では戦争があったり、そこまで大きいことで無くても私たちの周りでは、嫌なこと、思い通りにならない事などいっぱい起こります。それで人生が愚痴や文句になっていくのですが、でもこの地球で愚痴や文句を言っていたら、宇宙の何処に行っても、もっと愚痴や文句になります。「空気がない。水がない。緑がない。灼熱地獄。寒冷地獄。・・・」と果てしなく愚痴や文句が出てきます。

 

こう考えると宇宙の中でも極楽みたいな地球で、人間社会のことだけではなくて、もっと自分に与えられたワンチャンスを活かすことを考えた方が良いと思うのです。それはもっともっと周りのこと、咲いている花とか、浮かんでいる雲とか、青空とか、新緑の山とか川とか海とか、このような光景は宇宙のどこに行っても見られないのですね。この中で本当に愚痴や文句の一生を送っていいのかなと気付くのです。

 

もしかしたら広大な宇宙空間というところでは、私たちはもう既に地球という極楽に生まれているのかもしれません。それを人間がわざわざ自分の自我や欲で地獄にしているのでしょうね。そして「辛い、苦しい」と思っているのです。私の言っていることは今まで散々宇宙の観察や探査で確認されてきたことです。

 

ほんの数十年前までは世界の天文学者は銀河系だけが宇宙の全てだと思っていました。それがアンドロメダ星雲がもう一つの銀河だと発見したのがアメリカのハッブル博士だったのですね。それはとてつもない科学的な発見だったのです。その名前をつけたハッブル望遠鏡で、アンドロメダどころか宇宙には無数の銀河があることが分かっています。そして未だに命ある生物はバクテリアの一かけらも地球以外宇宙の何処にも確認されていません。

 

此処まで私が話しても、「まあ宇宙などどうでもいい。それより明日の自分の生活が苦しい、辛い、腹が立つ・・・」と多くの人が思うのは分かっています。しかし私は今日の瞑想で今更ながら本来の自分という存在を理解するのではなくて気付けて本当に良かったと思います。

 

真言密教の真髄は「梵我一如(ぼんがいちにょ)」と聞きました。宇宙と我は一体と言う意味です。これは禅の修業をしている時にも道場で「宇宙と我は一体」などと散々聞きましたが、一体禅をやっているどれだけの人が言葉や観念、思い込みではなく、心の奥底からこの「梵我一如」を体得しているのかなと思います。

 

「梵我一如」を体得すれば、先ず自分の病気などは自分であっという間に治すことができるようになります。そして人や動物の怪我や病気も回復させることができるようになります。本当の意味での衆生済度ですね。坐禅では無理でしたが、中村和尚に教えて貰った合掌瞑想を修行する事で、私は本来の意味でそういうことができるようになったと思います。

 

私は坐禅の修行をしている時には糖尿病でしたが、合掌瞑想の修行をしてからは、病院に行ったり薬を飲まなくても自分の糖尿病はちょっとした食事管理であっという間に治せました。それと同時に高血圧症もあっという間に治りました。今日の午後、1000mの水泳を終わって血圧を計ったら116/62でした。60歳という年齢を考えるとメチャクチャ良い数値だと思います。見た目もとっても若くなりました。

 

言葉や観念、思い込みではなく本当の意味で「宇宙と我は一体」を体得するとちゃんと客観的に目で見える結果となって現われます。坐禅などをしていくら素晴らしい事を言っていても、自分が病気などを持っていて薬を飲み続けていても治らない間は、何をどのように理屈をこねて弁解しても、言葉や観念で「宇宙と我は一体」と理解して言っているだけで体得はしていないのです。

 

でも本人は決められた制度の中で指導する立場となり体得しているような気分に浸っているだけなのですね。元々自分の病気を治すことは医者など治療をする側の問題で、「宇宙と我は一体」、「心身一如」と口では言いながら、自分が自力で自分の病を治せるなどとは最初から思っていないのです。自分が救われていないのに、人を救える訳がありません。自力で実際に目で見える結果がちゃんと出ないと「梵我一如」はダメなのですね。

 

まあそういう思い込みで可哀想に一生を終わる人もいっぱい居るわけですが、「梵我一如」を体得すると人生が一変します。病院にも行かず、薬を一かけらも飲まずに病気が治るだけではなくて、一口で言うと自分のあるがままの幸せに気付く事ができます。先日の私の車の事故も本当に不思議です。ぶつかっているのにお互いの車に傷一つないのですから。そう言えば明治の哲学者中村天風先生もヒマラヤのふもとのヨガの村で修行をして、自分で自分の死の病を治しています。ヨガの村でカリアッパ先生に付いて「梵我一如」を体得したのですね。

 

それでも寿命は尽きますが、天命により天寿を全うできるのです。私が思うに、大日如来とか薬師如来とかこの「如来」というのは「梵(宇宙)」の真の力を分かりやすく仏の形で表したものです。これで仏教で宇宙を表した曼荼羅の意味も、ただの美術品ではなくて何を言おうとしているのかが分かるのですね。正しい修行によりこの曼荼羅を自分の力として実践するのです。

 

これを実践して本当に数値でも計れる客観的な結果を出さないと、制度や形の上での名ばかりの指導者で、真の仏道の指導者としての資格はないと私は思っています。今まで二百人以上の人の癌を治し、90歳を越えてもピンピン暮らしておられる中村和尚を目の前で見るとそれが良く分かります。私は宇宙と一体になる本当に良い瞑想法を教えて貰ったと思います。これを伝えていくのが私のこれからの使命ですね。後はその人次第です。私は死ぬ前の日まで「梵我一如」を実践しながらその努力を続けて行きますよ。ありがとうございます。

 

合掌

 

仏光

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