一年の終わりに想うこと | 仏光さんの心の相談室
2017-12-31 10:02:25

一年の終わりに想うこと

テーマ:人間形成

仏光さんの心と体の学校Webサイトはこちら

 

金曜日から昨日まで大阪に行っていました。昼過ぎには帰ってきて今年最後の筋トレをしました。昨日が体育館の最終日だったのでトレーニングルームはとっても混んでいました。それでも良いトレーニングができたと思います。来年からはトレーニング方法を変えてみようと思います。今までのようにいつも一番重いウエイトにチャレンジするのではなくて、80%くらいの重さでセット回数を多くしようと思います。その方がより効率的に筋肉量を増やす事ができます。しかもインターバルを1分くらいに短縮してトレーニングをすると、より成長ホルモンが分泌されて筋肉の成長が促進されます。それから同じ筋肉を続けて使わないように2~3日休めるようにします。

 

 

昨日の夜はそのトレーニングメニューを作っていました。まああまり筋肉が大きくなっても意味が無いのですが、より運動生理学的に効率の良い事を短い時間にしようと思っているだけです。やっと休みになったので好きなことをしています。今日は今年最後のブログになります。だから普段思っていることをまとめながら一年の締めくくりとして書いてみようと思います。これは何故今私が英語でブッダの智慧に関する本を書いているのかにもつながります。

 

今の世界の情勢について私は大変憂慮しています。まずはイスラム国などの宗教による暴力がまかり通っている現状です。ヨーロッパやアメリカなどでイスラムによるテロが相次いだのは、今でもイスラム対キリスト教の構図が残っているという事です。しかも今の時代、その背後では武器の売買と消費という大企業や資本市場の欲が絡んでいます。昔インドでも独立運動の時にイスラム教徒とヒンズー教徒の対立が内戦にまで発展して、イギリスの統治から独立するのにインドとパキスタンに分裂しました。それほど宗教間の対立というのは根深いのですね。

 

人には本来何らかの宗教性が宿っています。無宗教と言っている人でも新年には初詣に行って「他の人はともかく、私と私の家族だけはうまく行きますように」と拝むのですね。その内容はともかく、拝むという事はそれなりの宗教性があるということです。それは人智の及ばない何か大きな力の影響を私たちが生きていく上で受けているのだと本能的に知っているからです。これすら分からなかったら、その人の一生は随分つまらないものになるでしょうね。「私は宗教はお断りします。」と言っている人でも新年に儀式と思いながらも長い列に並んで初詣をして手を合わせるのです。

 

私はその昔、禅から仏教に入っていきました。それは人生で本当に困った時に何らかの大いなる力に助けて貰いたいという気持ちがあったからだと思います。お先真っ暗でどうしようもない時に、何か大いなる力の助けでもあれば、まだ自分が何とかなるのではないかと思ったからですね。実際、私はどん底の時にそのように思いました。だからとりあえず何かをしなければと思って、禅を始めたのです。これは日本に居たから仏教の禅になっただけで、私がアメリカに居たらキリスト教のカトリックかプロテスタントの教会に行っていたかも知れません。

 

私はまあその大いなる力というか、その存在のお陰で禅に入門したのです。禅の修業をしていた時には禅こそが全てにおいて優れていると思い込んでいました。ところが修行を始めて十数年経ってみて、同じ禅でも曹洞宗と臨済宗で何となくお互いを批判しているところがあるし、何十年も禅の修業をして禅の公案が全部終わっている人が、私が本を出版したり、人を治したりしているのに嫉妬したのか、私の悪口を陰で言って回っているのを同席した違う道場の禅者から教えてもらって、「これは何かおかしいな?」と思ったのですね。

 

せっかくお釈迦様が「人のことを見るのではない、自分が何をしているのか、何を言っているのかを見よ」と素晴らしい真理を説いているにもかかわらず、禅道場でもこのような人間が残念ながら居るのです。これでは着物や袴を履きながら禅の格好をして厳かに坐禅や儀式をしているだけで、本人や集団としては禅に成り切っているつもりだけれども、一言で言えばお釈迦様の真理を日々の生活の中で反映できない禅のコスプレをしているに過ぎないことになります。

 

コスプレではいざという時に役に立たないですね。侍のコスプレをしていて、本人は侍に成り切ったつもりでも、また周りから見て立派な侍に見えていても、いざ合戦となると何の役にも立たないのと同じです。まあコスプレですからね。幕末の幕府軍も殆どの侍はコスプレ化していたのだと思いますよ。だからいざ合戦となると役に立たない。公家化した平家もそうですね。壇ノ浦で終わってしまいました。

 

しかし実際その中に居ると自分が禅のコスプレをやっているとは気付かないものなのです。もう成り切ってしまっていて逆に真理が見えなくなるのですね。それがみんなでやっている宗教集団のマイナス面だと私は思います。私も自分が気付くまではそうでした。本当に心根の良い人も一生懸命修行をやっているのにもったいない話です。でもこのことに気付く事がお釈迦様が説く八正道の正見です。物事を自分のフィルターを通さずに起きた事実をあるがままに正しく見るという正見なのですね。

 

仏教自体お釈迦様が言っている真理は一々本当に「なるほど」と思うくらい正しい事を言っていると思います。宇宙の真理と言っても良いでしょう。ところが2500年も経つと仏教もいくつかの宗派に別れ、それぞれが自分こそ正しいと言い始めるのですね。同じ道場で何十年も修業をしている人間ですら悪口を言って回る程度ですから、宗教や宗派が違うともっと激しい争いになるのです。

 

これでは何のための宗教なのか分かりません。本来人の心を救わなければならない宗教が、人を傷つける精神を養ってしまっているのです。私は今の既存の宗教、または何となく怪しい新興宗教などは真の意味で人の心を救っているとは思いません。それぞれが「これこそが正しい」という思い込みでやっている場合が多いのです。禅でもそうでした。それは宇宙の真理というのは完全無欠のものですが、人間は不完全であるからですね。不完全な人間が集まって組織を作ってウニウニやるものですから真理がいつのまにやら何処かに行ってしまって、問題が不完全な人間がやる事らしくややこしくなるのです。

 

私はイスラム教にしても、キリスト教にしても、仏教にしても、ヒンズー教にしても、メジャーと呼ばれる宗教の教祖となった人は同じ宇宙の真理を見ていたと思います。それはその教義の根本を見てみると基本的に同じことを言っているからです。「自分を慈しむように他人を慈しみなさい」とどの宗教でも言っています。それぞれの教祖は宇宙の真理として同じものを見ていたのですが、その当時は地理的にも離れていたので、それがそれぞれの神になったのですね。だからバラバラに見えるけれども一緒なのです。

 

これらの宗教が本来最終的に目指しているものは同じ真理だと思います。これは山の頂上は一点なのに、それぞれに違う登り口があり、頂上に続く違う登山道がある。ある登山道はイスラム教と言い、またある登山道はキリスト教と言い、仏教と言い、ヒンズー教と言ったのです。どの道を行くにしても本当に修行が成ったならば到達する地点は同じです。頂上(真理)は一つなのですから。

 

私はどの登山道から登っても良いと思っています。イスラムでもキリストでも仏教でもヒンズーでもいいのです。一番良くないのはどの登山道からも登らず、何もしないことですね。それでは生きている間に真理に近づくことは決して無いでしょう。せっかくこの世に生を受けたのに、あっちにフラフラ、こっちにフラフラとただ毎日、目の前を移り行く世界を生きているだけで、そのうち人生の本来の意味も知らずに寿命が尽きて死んでしまう事になります。そしてそれが人生だフニャ~と思っているのですね。

 

ところがそういう真理を最初に見た教祖と呼ばれる人から、それぞれが2000年以上も経っていて、その後の不完全な人間が集団を作り、自分の欲によりもっともらしい理屈や権威を付けながら、自分に都合の良いようにするから「俺の登山道こそ正しい登り口で、他の登山道は全部間違っている」と言い出すのです。そしてそれぞれが反目するようになって行ったのです。これが今の宗教に根ざした世界の抗争の構図を作っているのですね。

 

現代の人はその構図の一面だけを見て既存の宗教に救いを求められないのです。特に日本の場合はオームなどの事件があったのでさらにそのようになります。この前は宮司が弟に殺されていましたね。そして「私には宗教は何とも・・・・フニャ~」となる。しかし、それもそれで歴史的な事実を知ろうともせず、またその本質も理解せず、思慮が足りない事だなと私は思います。

 

本来、どうせ遅かれ早かれ同じ死ぬ運命にある人間同士はもっと仲良く暮らせるはずなのに、それぞれが自分の欲に走り、それぞれが人を批判し、この世だけで自分が死んだら終わりと思い、小さなところでは家族や職場の人間関係、大きくは国と国との戦争に発展するのです。そしてそれが人間の性で当たり前なのだと思い込んでしまうのです。せっかく人間として生まれているのに、本当にもったいない話しだと私は思います。これからAIの発達と共に人間はもっと不幸になっていくことでしょう。テクノロジーの発達により便利になり、効率的になり、不幸になるのですね。

 

町には無人のトラックや電車が走り回り、会社に電話をしてもコンピューター相手に話し、受付はロボットで、町には失業者が溢れているということがこのまま行けばそう遠くない未来に起こると思います。今のホワイトカラーの仕事などは殆どAIに取って代わると思いますよ。銀行に行ってもあまり人と話す事はなくなるでしょう。そこにはもっと精巧なATM があるだけです。不幸になるためにせっせとテクノロジーを発達させている人間は愚かです。もっと効率よく儲けたいという人間の欲望がそうさせるのですね。このままそのような世の中にならないように、これには何らかの国際的な合意と政策が必要です。ただ単にそれぞれの人間の良識に期待するのではなく、多くの人が不幸にならないよう、もっと具体的な政策が必要だと私は思います。

 

宗教に根ざす抗争にしても、AIなどのテクノロジーの発達にしても、自然破壊にしても、今人間は不幸になる道を邁進していると思います。まあどうせ今の資本主義は行き詰りますが、もうだいぶ行き詰っていますが、人間はもう一度本来の姿に回帰しなければならないと私は思います。それはもっと毎日の生活の中で自分の心を大切にするという姿です。そのために宇宙の真理を説いたお釈迦様の仏教の原典を基に、今英語の本を書いています。仏教で説かれた真理を身近な話を基に世界に発信していくことで、私にできることをやっているだけです。仏教だけが優れているとか、自分が世界を変えてやろうなどとはもちろん毛頭思っていません。

 

そんな事を思ってやっても完全に私は失敗する事でしょう。私も不完全な人間なのですから。またこの道だけが正しいという事もないのです。私は私が書く本により、また私の仕事を含めた生活の仕方により、世界で一人でも多くの人の心が少しでも救われるのならばそれで充分幸せです。これから人にとってもっと厳しい世の中になると思います。その時に本当に大切にしなければならないのは、一人ひとりの心の在り方です。何か指針が無ければ心は安定しません。その指針が私の場合お釈迦様が説く真理なのですね。そのためにもこれから一生懸命私にできることをしながらこつこつ精進をしていきますね。一年の締めくくりで長くなりましたが、今年もブログを読んでいただき、本当にありがとうございました。

 

新年が皆さんにとって穏やかな良い年になることを心から願っています。

 

合掌

 

仏光

仏光さんからのお願い

下二つのアイコンのクリックをお願いします
 

人気ブログランキング参加中。クリックをお願いします

禅僧 仏光さんの心の相談室-バナーブログランキング

ブログ村ランキング参加中。こちらもクリックをお願いします

禅僧 仏光さんの心の相談室-バナーブログ村

 

仏光さんのfacebookはこちらです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏光さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

コメント

[コメントする]

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス