信仰ではなく自己研鑽 | 仏光さんの心の相談室
2014-05-23 05:47:16

信仰ではなく自己研鑽

テーマ:お釈迦様の教え
お釈迦様が2500年前に説いた本来の仏教の特徴は、何か神秘的な力を信じ崇拝するのではなく、生きていく上での様々な苦をあくまで自分の問題として捉えて、自分を研鑽していくことによりこのような人生の問題を解決しようとするものです。人知を超えた神秘的な力にすがるという事がお釈迦様の仏教には全く無いのですね。だから何かを崇拝して救いを求めるという要素が全く無いのです。お釈迦様が伝えているのは自分の心を研鑽するトレーニングシステムです。だから神秘的なものの存在を信じ、その神秘的な力に頼り崇拝するという他の宗教とは全く違います。このような意味では仏教は宗教とは言えないかも知れません。

もちろん仏教も後の坊主によって、「仏像などを拝むとご利益がある」みたいに捻じ曲げられて日本に伝わってきました。今でもそのようなものが仏教であると思っている坊主や一般の人も多いです。だから中には仏像などを拝んで「癒し、救い、フニャ~」と思っている人も居ます。でもお釈迦様の時代の本来の原始仏教は自分を研鑽することにより人生の様々な問題を解決しようとするものなのです。今の仏教ともっと端的な違いは、お釈迦様は自分の弟子たちに「修行するものは人の葬儀などをしてはならない」と言っておられます。今の日本の仏教とはえらい違いですね。

心を研鑽するトレーニングシステムというお釈迦様本来の教えに最も近いのが禅です。正しい禅の修業はそれこそ自分の心のトレーニングシステムなのですね。自分の心を正しく研鑽することで人生の多くの問題を解決することができます。要するに他に頼るのではなく、自分の問題解決能力を発達させるのです。人生には色々な問題が起こりますが、それを一つ一つ解決していける能力を自分が持つと、結果的に心は平穏に生活できるようになっていくのですね。私がどん底の人生から今のようにまあまあ平穏に生活できるようになれたのは、坐禅の修行をしたお陰です。だから禅とは教科書が「仏法」で、勉強するという行為が「坐禅」なのです。坐禅の修行を通して仏法を学ぶのです。

お釈迦様が何か神秘的な存在や力に頼ることを戒めた言葉に次のようなものがあります。

「恐怖に駆られた人々は、山に、林に、園地に樹木に霊域にと、様々な場所に救いを求めようとする。しかしそれは安息な救済所ではない。それは最上の救済所ではない。そのような救済所に来たところで、全ての苦しみから逃れることなどできないのだ。」(ブッダ真理の言葉 佐々木閑)

また自分の心の研鑽や日頃の生活態度についてお釈迦様はこのようにも説いておられます。

「努め励むことは、死を離れた境地である。怠りなまけることは、死んでいる境地である。努め励んでいる人々は死ぬことがなく、怠りなまけている人たちは死んでいるようなものだ。」

「自分で自分を叱咤せよ。自分で自分を制御せよ。比丘よ(修行者よ)、自分を護り正しい思いを持ち続けるならば、お前は安楽に過ごすことができるであろう。」
(ブッダ真理の言葉 佐々木閑)

私は全くその通りだと思います。だから自分のしなければならない仕事や坐禅を淡々と毎日することが私にとっては心を平穏にして生活していく道なのですね。もちろん人間ですから道から外れることもあります。でも、自分の非に気づいたら自分で自分を改善すれば良いのですね。自分が自分の救済者です。私は自分自身が経験した本来の「救い」を多くの人に伝えたいと思っています。そして一人でも多くの人がお釈迦様の教えに触れて平穏な人生を送られることを心から願います。

合掌

仏光

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