幸せになる真似をする
人は誰しも幸せな人生を歩みたいと思っています。「不幸になりたい」などと思っている人は居ません。でも思っていることとやっていることが全然違う人が居ます。例えば「幸せになりたい」と思いながら泥棒をしていたり、詐欺をしていたりするのですね。これで幸せになるはずが無いのにそういう事をするのです。
幸せになるには、幸せになる事をしなければならないのですね。私も昔は立派な会社に勤めて、役員や社長などの肩書きを持って、収入が多くて、立派な家に住み、美味しいものを食べて、海外のリゾートでバケーションを楽しむような生活が幸せであると思って、実際30代で外資の役員と日本現地法人の社長になり、これら全てを手に入れたのですが、心から幸せを感じるという事はありませんでした。
これはこのようなものを手に入れても、心が無明のままなので幸せになれないのです。手に入れれば入れるほど、それを守るために心を費やすし、「もっと欲しい」と思い続けるし、人に見せびらかして優越感を感じたいしと、心の無明が引き起こす煩悩のままに生きているのでいくら肩書きやお金や権限が手に入っても幸せになるはずが無いのですね。
「無明」とは智慧が無いという意味です。本当に智慧が無かったのですね。だから幸せになれないのです。智慧が無いから能力があっても泥棒になり詐欺師にもなるのですね。また社会的に立派な肩書きを持ってお金があっても不幸せな人は世の中に掃いて捨てるほど居ます。私は社長をクビになってから禅と出会い、老師に入門が許されて坐禅を始め、そこでやっとこの無明から抜け出す智慧というものがあることを知りました。
もちろん今でも間違いは起こしますが、この智慧というものがあることを知ってから随分私の心は救われたと思います。間違いを起こしても、それを認めてすぐに改める事も出来るようになりました。幸せになるには幸せになる事をしなければならないのですね。
陰で人の悪口を言ったり、人を貶めるような事をしたり、怠けたり、自分だけが良ければ良いと思っていたり、人や世間と自分を比べて競争したり、人を見下したり、自分を良く見せようと思ったり、自分は特に何をするわけでもないのに人の事を批判したりと、このような事をしていて自分が幸せになるはずが無いのです。
私は坐禅をしていますが、これはお釈迦様や達磨大師の真似をしているのです。お釈迦様や達磨大師のようになりたいと思うのでその真似をしているのですね。泥棒の真似をしたら泥棒になります。詐欺師の真似をしたら詐欺師になります。これは簡単な真理ですね。「涅槃寂静」という絶対的な心の平穏を得たお釈迦様や達磨大師や百丈和尚や臨済和尚や雲門和尚や白隠和尚などの禅の祖師方の真似をすれば私も生きている間に「涅槃寂静」の心の境涯になれるかなと思っているのです。
真似も一生続けたらそれが本物です。あちこち今でも間違いながらも、この真似を続けることが無明から抜け出す智慧なのですね。何もしなければ何も起こりません。幸せになるには幸せになる事をしたら良いだけです。簡単に聞こえてするのは難しいけれども、最初は間違っても良いから幸せになる智慧を得る具体的な行動を始める事ですね。私は坐禅を始めて本当に良かったと思います。
合掌
仏光
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