働く事とは | 仏光さんの心の相談室

働く事とは

よく耳にするのが「ご飯を食べる為に働く」という言葉です。働かなければ食べてい行けない。だから働くということですね。禅の修行を始めてからこれは根本的に間違っている事に気付きました。もちろん私も働かなければ食べて行けないのですが、この考え方からすると、いっぱい資産があれば働かなくても食べて行けるという事になります。すると、働かなくても食べていけるほどのお金が欲しいという事になるのです。遊んでいても食べて行けたらいいなあと思う人も出てくるでしょう。これは一生食べて行けるお金があれば働かない。でも、お金が無いから働くということになるのですね。


修行期間中、食事の前に唱える食前の文の中に「一つ百丈和尚のいわく、一日為さざれば、一日喰らわずと」という文言があります。「一日働かなければ一日食うな」という意味です。百丈和尚は寺の掃除を日課にしていましたが、高齢になって弟子達が身体のことを心配していました。「和尚、掃除は私たちがやりますから、どうぞゆっくりしていてください。」と言っても、百丈和尚は寺の掃除を止めませんでした。ある時、弟子達は、掃除が出来ないように和尚の掃除道具を全部隠してしまいました。すると和尚は食事を取らなくなったのです。次の日も食事を取らないので、弟子が「何故食事を取らないのですか?」と聞いたら和尚はすかさず、「一日為さざれば、一日喰らわず」と言ったのですね。


ここに根本的な価値観の転換があるのです。人間は「食べていく為に働くのか?、働く為に食べているのか?」という価値観の違いです。昔の私は食べる為に働いていました。だから、よりよく食べる為、生活する為にもっとお金がもらえる地位に就き、莫大な退職金を貰って老後は遊んで暮らせるようにとせっせと働いていたのです。周りの人のことなど、まあどうでも良いわけです。自分さえ良い生活を確保したならそれで良いのですからそのために働いていたのですね。それが世の中では当たり前のことで、そのために自分の能力、体力を使うのだと思っていました。自分のよりよい生活を確保しながら、時々人と比べて優越感に浸れる生活を当たり前のように目指すのです。困っている人を見ても「あ~あ、可哀想に」で終わりです。


ところが今の私は、働く為に食べています。自分の持てる能力が人様の役に立てばいいなという思いで働いているのです。自分の才能、知識、体力、技術を人様に役立てる為に働く事が、自分の為に働くより1000倍以上幸せなのだという事に気付いたのですね。もちろん自分の生活、事業が円滑に回るように働く結果としてお金は頂きます。でも、その人の役に立てば、その人から感謝されながらお金を頂く事が出来るのです。もちろんこちらも感謝です。こういう働き方があるという事が分かったのですね。だから今は自分が働ける為に、自分の知識、才能、体力が少しでも人様の役に立つように毎日食べているのです。忙しいほどありがたいと思えますね。それだけ自分が役に立っているのだから。


これは大変幸せな働き方だと思います。食べる為に働くのは、食べていく為に働かされているという気持ちになっていきます。働かされるのは嫌だから、働かなくても食べていけるようになりたいと思うのですね。しかし、自分を世の中で役立てたいという思いで働くのは、自分が役立つ事を喜ぶ為に働くので、しっかり働く為に食べなければという事になるのです。同じ働くでも、この両者には天と地の差があります。自分を役立てる為に働く事の何と楽しい事か、幸せなことか。百丈和尚も自分を役立てるために寺の掃除をしていたのですね。いくらお金があったとしても、自分が何の役にも立っていないのに優越感に浸って食べているのは悲しい事です。


だから、どんな自分でもどうのようにしたら少しでも人様の役に立つのかなと考えてみれば良いと思います。働くというのは食べていく資金を得る為だけではなく、自分を世の中で役立てる為と思うと、相当一生の価値が変っていくと思いますよ。今自分が就いている同じ仕事をしていても良いし、仕事を変えてもいいのですが、こんなに楽しい働く為の心の置き所があったのですね。私の望みは死ぬ前の日まで働く事です。死ぬ前の日まで自分が人様のお役に立てればいいなと願っています。だから私には定年退職はありません。死ぬ日が定年退職の日です。定年後は働かずにゆっくり出来ますから。これが私のハッピーリタイアメントですね。


合掌


仏光


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