仏教の瞑想は、非言語ではまだまだダメで、超言語 | ブッダに学ぶ ブログ

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なんだか、ちょっと、テーマが飛び飛びですが、ま、許してください。そのうち落ち着くと思いますので。^^

ひとくくりに、仏教の瞑想と言っても本当に沢山ありますよね。

上座部で伝わるサマタ瞑想にしても40種類あると言いますし、ヴィパッサナー瞑想もありますし、そのヴィパッサナー瞑想も、なぜか沢山あります。また、チベット密教はチベット密教での瞑想法はありますし、禅宗の瞑想法もあります。その他、大乗系でも沢山あることでしょう。

しかし、どれも共通するのは、本来は「言語を使わない」ところです。ここが非常に重要です。

それはなぜか?

そもそも、悟りの境地とは?という、根源に立ち返らなければなりません。悟りとは言葉で表せない境地であり、体感です。

つまり、言葉を超えた(超言語)ところに、その境地はあるわけですから、いつまでも言葉を使っていては、その境地には達することなど出来ないはずなのです。

しかし、某比丘は、つねに言葉でサティ(念)を入れる、ヴィパッサナー瞑想で、阿羅漢果まで行けると言い切りますが、これは、「心身」個人的には無理だと考えます。脳の言語野を使っている以上、おそらく無理だと考えられるからです。ある時点で言葉を使わない様にしていかないと、悟りの境地にまで行かないでしょう。(ぶっ飛ばされそうですが・・・・^^;)

ただ、フォローではないのですが、言語を使ったサティ(念)でも、初めての人にはとても有効だと思います。それは、断言できます。

この手のヴィパッサナー瞑想を、やり始めればわかりますが、沸騰したお湯に出てくる泡のように、ぼこぼこ出てくる「雑念」を、言葉でサティを付けなければ、到底止めることなど出来ないでしょう。私は「はじめは、とりあえず、モグラたたきのように、サティを入れ続けるように」指導します。

慣れてくれば、その人によりますが、言語を減らしていく方向に持っていきます。

例えば経典でもこのように書いています。今回は、原始仏典の大ラーフラ経から引用します

(引用ここから)

『わたしは喜を感知しながら息を吐くだろう』と修学し、『私は喜を感知しながら息を吸う』
『わたしは楽を感知しながら息を吐くだろう』と修学し、『私は楽を感知しながら息を吸う』
『わたしは心行を感知しながら息を吐くだろう』と修学し、『私は心行を感知しながら息を吸う』


(引用ここまで) 原始仏典〈第5巻〉中部経典2  P.299


などなど、「感知して」となっています。感じるわけですね。

仏教の瞑想は、基本「感じる」「Feel」です。「感じる事によって気づく」のですから。そこに本来、言語をつかってはいけません。使うにしても、本当に最低限にする。どんどん少なくしていくことです。(※注 ただ、慌てることはありません。無理に言葉を減らそうとしても、無理でしょうから、サティを入れるのを上手くしていく方が先です。)

言語を使ってサティを入れ続けると、気づきも言語で気づく癖が出来てしまうのは、後々、禅定の階段を上がっていくのに、苦労すると思いますよ。


瞑想・Meditation


原始仏典〈第5巻〉中部経典2