モノマネする人の素顔 | ブラウンの熊たち

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皆さん、ボンジュール。
おや、ボンジョルノかな。
まぁどっちも同じ意味だけど。

ん、いや、違うぞ。
イタリア語のボンジョルノは「こんにちは」の他に「良い一日を」という意味もあるのだ。
だから、出会ってまず「ボンジョルノ」、そして帰り際に「ボンジョルノ」と言うことも良くあるのさ。

これを、フランス語でやっちゃうと、「あ、この人フランス語習いたてなのか。いや、バカなのか」ってなるから、ご注意を。

それでは皆さん、また来週~。

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ウソです。もう少し書きます。

今回の記事は俺にとっての日記的なものとも言えます。
最近考えていることです。

今回は、「仮面」について書きたいと思います。

いや、舞台役者の仮面でもなく、屋台で売ってる仮面ライダーのお面でもないです。
今回書きたいのは、人が知らないうちにかぶっている、透明の仮面です。

はい、まだイミフですねぇ。
それでは、ご説明致します。


仮面と素顔
俺がこの「仮面」について考え始めたきっかけは、これです。


フランス語の授業で読まなければいけない本です。
10日後に試験があるので、数日前に「ちぇ、しょうがないな」と読み始めました。

ところがどっこい、この本の内容は俺がとても共感できるものでした。
タイトルは「Nord Perdu」、直訳すると「失くした北」となるのですが、まぁ日本語でも分かるように訳すと、「自分を失くす」ってことですかね。
内容は、フィクション物語ではなく、自身の経験を語るエッセイです。

この作者、ナンシー・ヒューストンさんは、カナダ生まれの小説家、文学者で、現在パリに住んでいます。
彼女は英語とフランス語と共にペラペラのバイリンガルで、自分で同じ本を二つの言語で書いたりもしています。
この「Nord Perdu」の英語版も出版されています。


まだ読み始めて数日しかたっておらず、4章程しか読み終わっていませんが。
すでに面白い内容です。
彼女が長い間住んだ二つの国、カナダとフランスでの生活の中で経験した文化の違いと言葉の違い、自分の中の変化について書かれています。

最初の二章の内容をざっくり要約すると、

「二つの国に同じくらい長く住むと、本当の家、母国、自分を見失ってしまう。しかし、幼少期を過ごした場所で身に付いた習慣や経験は己のコアとなって、永遠に自分に残る。」

そして、3、4章目では

「しかし、違う国に移動すると、そこでの言語や文化などに慣れようとする意思が働く。次第に自分は舞台役者のように様々な役を演じ始める。やがて本来の自分を失ってしまう」

こんな感じです。
まるで仮面のように、様々な「自分」が本来の自分に、乗っかっていく。
長い間仮面をかぶっていると、肌の色が変色して衰えていきます。
これと同じように、長い間「別の自分」の仮面をかぶっていると、本来の自分は衰えてきて、次第に見失ってしまう。


しかし、ここで1、2章に書いてあった、幼少期の経験が生きてきます。
幼少期に養った自分の性格や考え方は、まるで果物の種のように、いつまでも自分の中に存在します。

自分を見失いかけたら、幼少期の自分を思い出すことによって、本来の自分を取り戻すことが出来るのかもしれない。

じゃぁ俺は?

ここで、俺はこのストーリーを自分に当てはめました。
俺はアメリカでオギャぁと生まれました。
しかし、生まれて数年で日本へ引っ越し。あんなに小さい赤ちゃんだったのによく荷物をまとめられたと、今でも我ながら感心しています。

日本の小学校を卒業したと思ったら、今度はスイスへお引っ越し。
今度は牛に囲まれながら、中高時代を過ごしました。

そして大学はまたアメリカです。

この経歴を皆に言うと、よく「うぉー、カッケー」とか「まさにグローバル人材じゃない」とか言われるんですが(個人的にはグローバルという言葉が大嫌いなのですが)、俺は「んー、どうなんだろう」と思います。

確かに、たくさんの文化を経験出来ましたし、いろいろな言語を学ぶことは出来ました。
父には大感謝しています。

しかし、同時に、俺は「故郷」というものがどこに当たるのか、分からなくなっていたのです。
これは、かなり前から考えていたことです。

日本に10年住んで、スイスにも7年。
どっちも俺にとっては「故郷」です。
帰れば友達もいるし、行きつけの場所もある。
不思議です。

逆に、生まれてから一度も引越したことがない人を羨ましいと思うこともあります。
「自分の家」がはっきりしていますし、海外で「どこからきたの?」と聞かれたら、すぐに答えることが出来るじゃないですか。

俺が経験しているのは、ある一種のアイデンティティ・クライシスかもしれません。
俺は故郷が分からないだけでなく、自分のことも分からないのではないか...
「2つの言語を喋る人は、2つの顔も持っている」
本にはこのようなことも書いてありました。
これは自分にとってすごく興味深い文章でした。

確かに、喋る言語によって、自分の性格というか、考え方が少し違ってくることがあります。

例えば、日本語の時は少し周りに気を使って発言したりします。
英語の時は、自分が思っていることを意外と素直に言えたりします。
フラ語で喋る機会はあまりないのですが、使うときは、文句っぽい口調になったりします。
イタ語の時は、いつもより陽気でジョークを良く言います。

これ書いてて自分でも苦笑しました。
ってかこれが始めての言語を通しての自己分析です(笑)

これを改めて見返すと、俺はそれぞれの国の文化にとけ込もうとしているように感じます。
日本だと、「空気を読む」文化が定着していますし、アメリカでは逆に自分の意見をためらいなく主張する。フランスではー、うーん、これはフランス語の発音のせいなのかもしれませんが、モゴモゴ言うことによって不満を抱えている印象になるのかもしれません。イタリアはご存知の通り、のんきで陽気な文化が定着しているように思えます。

全て俺の偏見なのですが、それでもその偏見に頼って、自分なりに言語を通してその環境にとけ込もうとしているのかもしれない。
存在しない自分を作ってまでとけ込もうとしたいこれは何なんでしょう。
人間のサバイバル思考なのでしょうか。

はい、それでは、その中で変化しないもの、「幼少期に養った考え方」はどんなものなのでしょうか。
これまた自己分析してみます。

あー、なんか長くなりそうなので、短くまとめます。

俺は小さい頃から、まぁ好奇心旺盛というか、いろいろなものに触れては離れ、違うものを探し、また新しい情熱を見つけては、他のを探していました。そしてその時その時、その自分が学んだものや面白いと思ったものを、何らかの方法で人々に伝えていました。
例えば、恐竜が好きだった頃は、恐竜の図鑑を自分のイラストで作ってみたり、かいけつゾロリが好きだった頃は、そのスタイルを真似して、自分なりのミステリー小説を書いてみたり。
スイスに行って、映画が好きになった時、自分で映画を作って、それを家族や友人に見せたり...

スイス時代の俺

とにかく、「人に物事を伝え、あるいは教え、喜んでもらう」ことが好きだったようです。
それで自分の「作品」を見た人が喜んでいるのをみて、自分も嬉しくなって、他のことに取り組むというか...
まぁ、「人に喜んでもらいたい」という気持ちは、どこへ行っても変わっていないような気がします...

これが本当の俺なのか...
そこはまだ分かりません....
一生分からないかもしれないし、考え過ぎかもしれない。

ここでふと思ったんですが、モノマネ芸人さんって、本当の自分を失わないのでしょうか。
いろいろな人を演じて、その人のしぐさ、表情、声、格好などを研究して自分のネタを磨く訳です。それも、何十人という人のを。
そうしていく中で、モノマネをする前の自分を常に忘れないようにするのってすごい大変だと思うんです。あくまで俺の意見なんですが。

原口あきまささんのプライベートってどんな感じなのかなーってたまに思います。
さんまじゃない原口さんとかってどうなんだろうって。

まぁ、自分がどういう人間かっていうのは、自分で分かっていればいいのかもしれません。
ってか、そもそもこんな自己分析、ここに書かない方が良かったのかもしれません。
でも、今回フランス語の課題の本を読んでここまで考えたのは、個人的にすごい驚きで興味深かったので、是非皆さんとシェアしたいなと思ったまでです。

こんな自己分析の仕方もあるんだなぁと思ってもらえればと思います。


それでは、カレー食ってくるぜ!


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