
うららかなよいお天気ですね。紅葉日和です。北陸地方は日曜日まで持ちますが、月曜日からは雨となる予報です。短い期間ですが秋の風情をお楽しみください😊
さて、先日毎年恒例の過労死等防止対策シンポジウム (2015年あたりからやっております。電通の高橋まつりさんが新卒で入社して、その年のうちに過労自死され、その後過労死にかかわる法整備・啓発が進み、11月は過労死等防止啓発月間となっており、全国でシンポジウムが開催されています)に行ってきました。
いろいろと資料があるなかで、「しごとより、いのち」と書かれたチラシ・パンフレットが目にとまりました。
しごとより、いのち⋯
このキャッチフレーズに違和感を覚えました。
過労死をゼロに、の観点からパンフレットにはいろんな取組や提案が書いてありました。
このキャッチフレーズには肯定的な声が寄せられています。厚労省ようやく気づいたか、ようやく本腰入れたか⋯という感じでしょうか。
この違和感を少し分析してみたいと思います。
ここでいう「しごと」とは何でしょうか?雇用される労働者が労働契約上義務とする提供すべき労務でしょうか?パンフレットの中身を読む限りそのようです。
「いのち」とは何でしょうか?
死なないこと、死の対極にある生を「いのち」と言っているのでしょうか?
病気にならないこと(心の病気も含めて)も「いのち」に入っているようです。
過労死等の文脈なので怪我や、事故によりいのちが失われることは含まれていないようです⋯
上記のように言葉を定義付けしてみると、しごとよりいのちは当たり前に思うのだが、わざわざキャッチフレーズにしなければならない状況なのだろうが、それにもかかわらず切迫感も緊張感もないのはどうしてだろうか。
厚労省が「しごとより、いのち」というキャッチフレーズを作ったその心はどのようなものなのでしょうか。
かつて、育児をしない男を父とは呼ばないというキャッチフレーズを人気ダンサーを起用したポスターで宣伝していたが、あれと同様の浮ついた気分を感じるのである。
しごとより、いのちの中には本来全ての人のしごとやいのち(いのちはなおのこと)か含まれているはすです。縄張り意識で管轄以外やりたくないくせに(今後管轄はなくなるという発想は役人にはない)大仰なウケ狙いのキャッチフレーズを作って悦に入っている厚労省が気に食わない。
違和感の正体はこれか⋯
ケチつけてるだけです😑
しごとより、いのちの中には自分たちは入っていないとする雇用される人たちもいます。
「受け手のいない祈り」の中の医師たちは、誰の命も見捨てないの「誰も」に自分たちが入っていないことを感じながら、それでも絶え間なく運ばれてくる患者(救急もあればそうではない患者も⋯)に対応しています。(小説の中で、ある医師が、労基に先月の残業100時間超えと訴えたが、医師は例外ですから違法ではありませんと門前払いされた話があった)
しごとより、いのち。
このキャッチフレーズをまっすぐに受け取れない人がいる。
いいキャッチフレーズだぜ、すげぇだろ?じゃなく、こんなキャッチフレーズ作らなくていい社会がいい。











