全米選手権ージャッジと解説者についてー | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。

全米選手権が終わった。
正直、演技には興味があったが、点数でもやもやするのが嫌だったので見なかったのだが、アナウンサーのネイサンに対する『GOAT』発言と、某プロスケーターの、それに賛同する発言があったというツイートを見たので、演技を見てみようという気になった。

断っておきたいのだが、某プロスケーターの発言については、真偽がはっきりしない。
だから本来ならば、取り上げるべきではないと思う。
それをあえてここで取り上げるのは、後に述べる理由からなので、それを念頭において、読んで頂きたいと思う。

さて、そんなわけで、私はネイサン選手のフリーの演技を見た。
以前も書いたが、ネイサン選手に対してどうこうというつもりはない。
彼が学業と両立させて頑張っていることに対しては、敬意を表したいと思っているし、4回転のルッツとフリップ両方を跳べるということに対しても、敬意を持っている。
問題は、その評価の方なのだ。

今回、演技を見て感じたのは、果たしてフィギュアスケートで、プログラム自体の難易度ということに、注意が払われているのだろうか、ということである。

女子は、エテリチームが著しく難易度の高いプログラムを組んで、評価を得ているから、全く注意が払われていないわけでは無いはずだと思うが、こと男子については、クエスチョンマークが付かざるを得ない。

プログラムの難易度というのは、ジャンプの種類による難易度だけではない。
プログラム全体の難易度があるはずだが、そこの評価が非常に曖昧で、ジャッジ達は『主観』でそこを評価しているのではないかとさえ思えることは、度々言われていることである。
つまり、ジャンプのGOEは勿論のこと、スピンやステップのGOE、そしてPCSについてだ。

今回のネイサン選手のフリーについて言えば、目新しいことは何もなかったと、私は思った。

ことに、今回、なぜかスケーティングの音がよく拾われていて、この静かな音楽の間中、彼のスケートが氷を引っ掻く音が聞こえて、非常に気になった。
それは、彼がクロスで漕ぐ回数が多いせいではないかと思う。
ジェイソンの演技も見てみたが、こちらもスケーティングの音はよく拾われていて、確かに聞こえるのだけれど、ネイサン選手とは明らかに違う。

そして、この流れるような音楽に対して、ネイサンのスケーティングが伸びないのが、非常にミスマッチングだと感じさせる。

正直に言ってしまえば、ネイサン選手のプログラムは、難しいジャンプを跳んでいるということ以外の部分では、全く平凡だと感じたのだ。これは、スケートアメリカのSPを見たときも感じたことである。
私は所謂スケオタではないので、間違っていたら、教えていただきたい。

この、プログラム自体の難易度ということを考えたのは、先日、現役スケーターさんが羽生選手のジャンプの入りを実際やってみた、という動画を、少しだけだけれど、見たからである。
三回転ジャンプでもとても難しいと、彼らは言っていらした。
これを四回転でやるのは、『化け物』だと(笑)
そして、羽生選手のステップについては、どのように組み立てられているか、複雑かつ速すぎて、わからないと言ってらしたのである。
それを聞いて、ジャッジは、本当にその難しさをわかっているのだろうか、と思ったのだ。


またまた音楽の話になって恐縮なのだけれど、大きなな音楽コンクールにおいて、参加者が演奏する曲を、自分が演奏したことがない、という審査員は、まず殆どいない。
仮に百歩譲って自分が演奏していなかったとしても、生徒を指導したことは数々あって、そのために、勿論教授はその曲を研究しているから、曲の隅々まで知っているのである。

だから、その曲のどういうところが難しいか、良く知っていて、審査する訳だ。

曲目には幅があって、予選の時は課題がグループ分けされ、それぞれの中から1曲ずつ、というふうになるのだが、本選はピアノの場合は、大抵協奏曲で、自由に選べることが多い。(ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールなどは、勿論例外であるが)

でも、どの協奏曲がきても、審査員はその曲を熟知しているのだ。

例えばベートーベンのピアノ協奏曲とプロコフィエフのピアノ協奏曲では、ただ弾くということに関して言えば、難易度が全然違う。
但し、プロコフィエフを頑張って弾いた、という演奏と、ベートーベンを深い音楽性で審査員を唸らせるくらいに弾いた場合とでは、勿論ベートーベンの演奏者の方が評価は高い。
しかし、コンクールに出てくるような若さでそれはとても難しいので、大抵はショパンとかになる。プロコフィエフは、テクニックに相当自信がないと出来ない。しかし、昨今はプロコフィエフを弾きこなせる演奏者がどんどん出てきて、『弾ける』というだけでは評価されなくなってきている。
ショパンなどは、音楽的に光る、完成されたものがあれば、その曲自体の難しさと相まって、評価に繋がりやすい。

そのように、曲を審査員が熟知しているからこそ、総合的な判断が可能なのだ。


しかし、現在の男子フィギュアスケートにおいては、正直、羽生選手のプログラムの難度が正当に評価されているとは思えない。

それが、ネイサン選手の演技を見て、私が一番に感じたことだった。


アナウンサーや、一般の人々がわからないなら、これは仕方ないことかもしれない。
(でも、おかしなことに、一般の人々の方が、何となくの印象であるけれど、それをはっきり感じているのだ!)

フィギュアスケートのプログラムは、それほど複雑な要素が沢山あるわけではない。
エレメントの数は限られており、つなぎの部分もそんなに長々とあるわけではない。
評価はそれほど難しく無いはずである。
彼らは、フィギュアスケートの専門家ではないのだろうか?


ここで、とある小さなコンクールで起きたことを書いてみる。

地方都市の、アマチュアの学生が参加するコンクールで、主に吹奏楽部に所属する生徒の為の、ソロコンテストだった。
審査員は学校の先生で、音楽の専門家ではなかった。

様々な楽器の学生が参加するので、審査は結構難しいとは思う。

結果を知って、私は首を捻った。
どう考えても、何故そういう結果になったか、わからなかったのだ。

後で、そのコンテストのことを知っている人から、「あそこは、曲の音の数で結果を決める」のだと教えられた。
沢山の音がある曲ーーつまり、速いパッセージが沢山入っている曲をしたほうが勝つというのである。
私は聞き返した。
「え、だって、吹けてなかったよ?」
吹けてなくても良いんだそうだ。

仰天した。
今時、そんなコンクールがあるとは、夢にも思わなかった(笑)

しかし、実際、「わからない」人が「公平に」審査するには、それしかなかったのかもしれない。
私は、優勝した生徒さんが音楽大学に行きたいなどと考えないことを祈った。


フィギュアスケートのジャッジが、そんな低レベルの筈はないと思うが、現在起きていることは、そこまでではないにしろ、レベルを疑われるようなことであることは間違いない。
何故なら、4回のフリップとルッツを確率良く跳べると言うだけで、総てのエレメンツとPCSで評価が上がっていると思うからだ。

もし、ジャッジのレベルが低いのでないというならば、意図的にやっていることになり、もっと始末が悪い。

そして、例えジャッジがどうであれ、スケーターはわかっているはずなのだ。
現役スケーターは発言出来ないだろうが、少なくともOB、OGの、かつてトップクラスだったスケーターはわかっているはずだ。

つまり、真っ当な解説者は、わかっているはずなのだ。
しかし、大抵の解説者は、それに言及しない。

何も、出来ない選手のことをことさら言う必要はないが、『出来ている』選手については、言及するべきだ。


ちゃんとした音楽コンクールでは、必ず審査員の『講評』がある。特に、日本音楽コンクールなどは、本選の参加者については、一人ずつについて、新聞に講評が載る。
審査員が、どこをどのように評価したか、が、代表だけだが、公に発表されるのだ。

それを受けて、巷ではまた、喧々囂々の論争がされるのだが。

だから、審査員は、例え大御所でも、もう現在のレベルの生徒さんを教えていない人は選ばれない。見当外れの審査をされたら、コンクール自体の権威が地に墜ちてしまうからだ。

その分野がすべての面で向上してゆくためには、審査員のレベルの向上と、専門家からの一般へも含めたフィードバックは不可欠なのだ。
それが、参加者や、一般の愛好家のレベル向上に繋がるからである。

フィギュアスケートでは、その双方が、拒絶されていると感じる。
選手達は、必死にレベルを向上させてきているのに。

だからこそ、最初に述べたように、全米において某プロスケーターが万が一本当にそのような発言をしたのならば、その事の重大さは、単に羽生選手に対してというだけでなく、フィギュアスケートという競技全体に及ぶと私は思うのだ。
それが、真実でないことを祈るけれど。

同時に、OB、OG、取り分け解説者の席に座る人には、フィギュアスケートという競技自体に対して、責任があるということを、自覚して欲しいと強く願う。
例えテレビ局などからの圧力があるとしても。彼らには、その力があるはずなのだから。
そして、テレビ局側には、専門家の意見を尊重して欲しいと思う。
自分達の描いたストーリーは、スポーツには不要で有害なものだと、自覚して欲しい。

これはショーではなく、真剣勝負なのだ。


全米選手権が、こと男子に限っては、世界に向けたデモンストレーションになっているのは、疑いないことだ。

しかし、それに左右されてしまう国際ジャッジのレベルは、情けない限りであると私は思う。

勝負にたらればは言うべきでないと思うけれども、もし、羽生選手とネイサン選手が直接対決したとき、羽生選手が全日本のフリーのような演技をし、ネイサン選手が今回転倒したルッツを降りたとして、ジャッジがネイサン選手に軍配をあげるようなことがあったなら、それは、ピアノのコンクールにおいて、例えばシューマンのピアノ協奏曲第を感動的に弾いた演奏に対して、プロコフィエフを取りあえず音楽的な中身はないが、ミス無く弾いた演奏を優勝させるようなものだと言いたい。


音楽の大きなコンクールにおいて、そのようなジャッジングは考えられない。もし仮にあったとすれば、日本においてさえ遥か遠い昔ーー日本におけるクラシック音楽の黎明期の話になるだろう。




蛇足ながら付け加える。
音楽のコンクールは、芸術のコンクールだから、という人がいたら、それは間違いだと言いたい。音楽のコンクールは、技術が殆ど総てである。ただし、その『技術』は、単に『弾ける』というようなレベルではない。音楽的に充実したものにするためには、とてつもない『技術』が必要であり、そこを包括的に審査されるということなのである。

《追記》
ここでは、分かりやすいように羽生選手の演技をシューマンのピアノ協奏曲に例えたが、難易度だけから言うと、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番が妥当だと思う。それくらい、羽生選手のプログラムの難易度はめちゃくちゃ高いことを付け加えておく。しかし、羽生選手のスケートから受け取る感動は、私にとってはシューマンのそれから受け取る感動と同質のものがあるのだ。