天海 (188)

 

 

 

 松尾山の小早川隊は困惑していた。鬨の声が上がり、鉄砲の音は鳴り響いていたが、福島隊の位置が当初の打ち合わせと違っていたのである。山麓は霧が深く、これでは敵味方の区別が全くつかない。すると家康本陣から奥平貞治が訪れ、参陣を強く促したのであった。

 やがて山麓も霧が晴れ、青空が見えた。小早川隊は満を持して松尾山を下りたのである。今か今かと、待ち構えていた脇坂隊らも、一斉に大谷隊に向かって、突撃したのであった。

 「脇坂もようやく動いたか。心配させやがる。これであいつも本領安堵は固いであろう。」と高虎は苦笑いをした。

 

 「あぁ、これでお味方の勝利は間違いありませんな。誠におめでとうございます。」と天海家康に言うと、「まだだ、気が早い坊主だな。」と家康は、悪態をついたが、その顔は笑いを噛み殺していた。

 

 松尾山から鬨の声が聞こえると吉継は、「合戦は負けになったか。」と尋ねた。すると五助は「いえ、まだ負けておりません。」と答えたのである。

 やがて、小早川隊が殺到し、大谷隊は総崩れになった。すると、今度は五助が「お味方は負けとなりました。」と吉継に言った。

 「そうか、では頼む。」と吉継は輿から半身を出したのである。吉継はキリシタンであったといわれ、自害を禁じられていたのであった。

 五助は、刀を抜くと吉継の首を打ち落とした。吉継は病で朽ちた顔を晒されたくなかったのである。五助は首を布で包むと山中に隠した

 「すぐに、お供しますので、しばしお待ちください。」というと五助は、敵中に身を投じ、討ち死にしたのである。(「慶長年中卜斎記」)

 

 昼頃になると宇喜多隊小西隊小早川・脇坂・朽木隊から側面攻撃を受けて、伊吹山中に後退した。左軍にいた藤堂隊と京極隊は、戦場を横切って石田隊の側面に襲い掛かり、堪らず石田隊も笹尾山に後退したのである。

 

 気が付けば島津義弘・豊久は敵中孤立していたのである。すでに平野は徳川の兵が満ち満ちていて、どこにも逃げ場がなかった。

 「どうされます。」と豊久は言う。

 「うしろに下がれんのなら、前に退却するほかあるまい。」と義弘は言う。

 「なるほど、されば敵中突破と行きますか。」と豊久はうなずいた。

 義久は既に65歳である。今更、山中に逃れ、泥を啜るくらいなら、華々しく討ち死にしようと考えたのである。

 かくして高名な「島津の退き口」が始まるのであった。

 

 島津隊(1700人)は一塊になると、鉄砲隊を指揮する豊久を先頭に山陣を下りた。槍隊は隊列を組むと低く構え、突撃体制で前進したのである。

 当然のことながら、徳川軍は島津隊を囲みながら接近してきた。島津隊はぎりぎりまで、攻撃を控え、黙々と前進したのである。

 「今だ。」と馬上の豊久が命じると、島津勢は一斉に鉄砲を放った。前方の兵士は矢玉で薙ぎ倒された。島津隊はその屍を踏み越え、僅かな隙間をめがけて槍隊が突撃したのである。それから義弘らは、前後左右の敵をねじ伏せながら、ひたすら乱戦の中、東に向かって走り続けたのであった。この時、義弘らは一応、大垣城を目指したようである。

 

大谷吉継

 

三島霜川 著 ほか『日本歴史実伝物語叢書』7

(関ケ原大合戦),金の星社,昭和2.

 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1717474 (参照 2024-05-22)