天海 (84)

 

 

 私は何度も言っているが、李舜臣は優れた将軍である。彼は恵まれない状況の中で祖国のために懸命に戦っている英雄なのだ。だからこそ彼の業績は正当に評価すべきであり、荒唐無稽な実績を並べ立てるのは、むしろ彼に対する冒とくであると考える。

 韓国では、日本軍の損失を「沈没31隻、大破92隻、8000〜9000人が戦死」と主張しているのだ。過大報告しがちな李舜臣ですら、「賊船三十隻撞破」としか記していない。つまり撃沈とも大破とも言ってはいないのだ。一体、この数字はどこから来たのであろう。

 

 「このとき李舜臣は倭軍を鳴梁へ誘導して一大反撃を加え,大勝利を収めた。陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は,次第に戦意を喪失して敗走を始めた。朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり,最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の尖戦闘で壮烈な戦死を遂げた。露梁大勝を最後に7年間にわたった戦乱は終わりを告げた。」(韓国の歴史教科書「高等学校韓国史」』)

 

 このように韓国の教科書は全くの出鱈目である。陸での敗戦とは稷山の戦いのことを言っている様だが、漢城に敗走したのは明・朝鮮軍である。日本軍の士気が落ちて、敗走を始めたとは何を指しているのかも分からない。この後に蔚山城泗川城の戦いがあることを忘れているのだろうか。要するに韓国の歴史教科は国威の高揚のためにあり、史実は二の次なのである。

 ところが、残念なことに日本国内にも、このような韓国の主張に従うような例がある。

 

 「鳴梁に秀吉軍330隻を迎えた時は,わずか13隻の状態であった。(中略)。それが,鳴梁では朝鮮水軍側は1隻の船も失わず,反対に秀吉軍は30隻の軍船と来島水軍の総帥来島通総を失ったほか,猛将藤堂高虎も重傷,軍監毛利高政もあわや溺死寸前という完膚無きの状態で,朝鮮南海岸の西進策は脆くも崩れ,熊川に引き上げるはめとなった。」(『秀吉の野望と誤算−文禄・慶長の役と関ケ原合戦−』笠谷・黒田)

 

 この戦いで朝鮮軍が半島南岸の制海権を奪った事実はなく、日本水軍が熊川に敗走した事実もない。朝鮮南海岸の水陸一体の西進策はその目的を果たしている。一体、何を根拠にしているのであろう。

 

 朝鮮水軍の勝利に兵士たちは沸き返った。しかし李舜臣は、すぐにこの地を離れて、北上することを決定したのである。

 「勝利は嬉しいが、戦力差は如何ともしがたい。賊はまだ300艘の軍船を保持しているのだ。さらに陸上部隊が右水営に迫っているという。我らは全員を連れて安全な所まで退却する。」と李舜臣は告げたのである。事実、「乱中日記」にも黄海を北上する様子が記されている。

 

 「24日,務安県の一海島についた。そこには,賊船が数千艘も海港に充満し,紅白の旗が日に照り輝いていた。(中略)一人の賊が,通訳を引き連れて来て,李舜臣は今どこにいるのかと問いただした。」(「看羊録」姜沆)

 

 つまり日本水軍は、逃走した李舜臣を追跡していたのだ。李舜臣が全羅道西岸を必死で北上した理由が分かるであろう。

 日韓の学者が、多くの文献で,「日本水軍が敗走,西進の勢いを挫かれ,熊川へ撤退した。朝鮮水軍が制海権を回復した。」等とありもしないことを主張するのは何故であろうか。そもそも、板屋船13艘全羅道南岸の制海権をどうやって維持したというのだろう。是非、具体的に説明してもらいたいものである。