明日は"The Day of Valor"(勇者の日)でNational Holiday。
"The Day of Valor"(勇者の日)はバターンディとも言いますが、太平洋戦争でコレヒドール島と共に激戦地だったバターン半島で、3カ月の戦闘の後、1942年4月9日、マーク・マコイ・メトラン少将のもと、大部分がフィリピン人の78,000人の米比軍が日本軍に降伏した日です。
なぜ降伏した日が勇者の日かというと、これらの兵士による英雄的なバターン防衛が太平洋における日本軍の前進を止め、最終的に運命の転換と連合軍の勝利につながり、後の戦いに備える時間を与えた重要な出来事と見なされたというわけです。
日本軍のフィリピン侵攻は真珠湾攻撃の10時間後、1941年12月8日から始まりました。
マニラ湾の港には大艦隊を駐留できる能力はなく、海軍基地は8000㎞離れたハワイの真珠湾を使うしかありません。
しかし真珠湾も同日の奇襲攻撃で大きなダメージを受けており、劣勢の中で、首都マニラは3週間後の1942年1月2日に占領されました。
そして米比軍はマニラとはマニラ湾を挟んだ向かいのコレヒドール島とバターン半島で抵抗を続けましたが、1942年4月9日、バターン半島の米比連合軍は降伏し、非戦闘員を含む、大部分はフィリピン人の推定8万人の捕虜たちは、Mariveles と Bagac town に集められました。
翌10日、バターン死の行進は出発し、バターンからサンフェルナンドまで大部分を徒歩で行進し、サンフェルナンドから貨車でCapasのキャンプ・オドネルに送られました。
そしてキャンプ・オドネルに着くまでに推定26000人、キャンプ・オドネルでさらに30000~31000人が亡くなったとみられていますが、アメリカ兵は千人単位、フィリピン人は万人単位で亡くなったとされます。
真珠湾攻撃で米海軍に大きなダメージを与えた日本軍。
始めは米軍を圧倒しましたが、戦況が変わったのはバターンの降伏から僅か2ヵ月後、1942年6月5日から6月7日に行われたミッドウェー海戦です。
この海戦で日本軍は制空権と制海権を失い、戦争の主導権はアメリカに移りましたが、
もしかしてバターンの奮戦が勝利を呼んだのでしょうか?
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なお昨日、陸上自衛隊が公式アカウントで大東亜戦争という言葉を使いネットで波紋を呼びましたが、大東亜共栄圏、大東亜戦争という呼称が定められた1941年からはすでに82年余り。
殆どの人は大東亜戦争という呼称の意味も何が問題なのかも分からないと思いますが、日本政府は公式に大東亜戦争という呼称は使いません。
陸自部隊、公式Xの投稿で「大東亜戦争」と表現 ネットで波紋https://t.co/F2YQJ1QXKW
— 毎日新聞 (@mainichi) April 7, 2024
大東亜戦争という名称について知るには1931年の満州事変、1932年の傀儡国家・満州国の建立まで遡らなければならないでしょう。
これに対して、中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴し、国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣し、日本の侵略と認定しました。
1933年2月、国際連盟総会はリットン調査団報告書を審議し、日本の代表松岡洋右は満州国を自主的に独立した国家であると主張したが、審議の結果、反対は日本のみ、賛成が42カ国で可決された。
これを受けて日本政府は1933年3月27日国際連盟脱退を通告しました。
そして1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の‟盧溝橋”付近で日本軍と中国軍が衝突する ‟盧溝橋事件”が起き、”日中戦争”が始まりました。
こうして陸軍は大陸を北進し、一方海軍は資源を求めて東南アジアに南進しました。
大東亜共栄圏は日本・満洲・中国・フィリピン・タイ・ビルマ・インドなどを中心とした、アジア諸国を欧米帝国主義国の植民地支配下から解放して、日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏を作るというスローガンですが、中国やフィリピンはじめアジア諸国にすれば侵略戦争です。
大東亜戦争という呼称は太平洋戦争開始直後の1941年(昭和16)12月12日、政府が「今次の対米英戦は、支那(しな)事変をも含め大東亜戦争と呼称す」としたことから生まれたもので、大東亜共栄圏のための戦争で、日本にとっては正義の戦いという位置づけですが、日本と戦った国々にすればとんでもないでしょう。
従って連合国にとっては容認できるものではなく、戦後GHQに使用禁止にされ、また日本政府は公式には大東亜戦争という呼称は使いません。
自衛隊が大東亜戦争という呼称を使って喜ぶのは、あの国とあの国ではないかと思います。
また日本は国連憲章第53条、第77条1項b、第107条に規定されている敵国条項の対象国です。
敵国条項を端的に言えば、第二次大戦中に連合国の敵国であった国が、戦争の結果確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は、安保理の許可がなくとも当該国に対して軍事制裁を科すことができるというものです。
この条項の削除は日本の悲願であり国連総会では可決しましたが、ご存じのように安保理常任理事国には拒否権があり、国連総会で決めても常任理事国が一国でも拒否すれば否決されます。
常任理事国は中国・ロシア・アメリカ・イギリス・フランスですから、この条項を削除するのは非常に困難です。
日本政府はこの条項は死文化しているとしていますが、国連憲章に条文が残っている限り有効であり、死文化しているとはいえません。
先の戦争は日本がアジアの盟主として欧米列強の植民地支配からアジアを解放しようとしたなどと、対外的にマズイ事は言わない方が良いと思います。