あの30年にわたって感じ続けていたおんぶおばけは、
ものの数時間で軽くなった。

もちろん、そこに折り重なるようにあった葛藤を、
出てくるたびに解放したわけだけど。

それは薄いもやのように、一見どうでもいいようなものだけど、
確かになにかしらの気の重さがある。
そしてそれが、あまり望まないものなら解放しとく。

それは言語化以前のものだ。
言語化すると、その意識は急にはっきりしたものになる。

これは、意識同士がお互いを認識したということで、
「あ、みつけた」と「あ、みつかった」が同時にある。

生々しい感情がやってくるときもあるけど、
それもそれとして、眺めるようにしている。
そこに入り込んでも仕方ないので。
いや、もちろん入り込んでもいいのだけど、
わたしはただ、めんどくさいのだ。

とっとと終わらせたい。

はいーみつけたー。
あー、なるほどねー、こういう感情ねー。はいはいー。
認識しました。はい、解放。

こんなだ。


感情は自分のパーツのひとつ、として捉えている。

ああ、こんなところにまだあったか、な感じ。

ほんとに事務作業的だ。


おんぶおばけ その1の文章が、
ややドラマにハマってるのはお分かりだろうか。

私こんなにたいへんだったの臭が漂っている。

こういうのは、ある程度吐き出してしまえばいい。


ああ、このへんドラマに入ってるなーと思いつつ、
吐き出しながらチェックしていく。

ああ、ずいぶんと
自分は母の面倒をみないといけないのだ、
母の言うことは逆らわず聞いてあげなくてはいけないのだ、
母のたいへんさを理解してあげないといけない、
私は嫌だと言えない、
逆らうことが許されない、
そんなことを自分に課していたな、と思い出しながら吐き出してみた。

そして、こんな自分かわいそう、みたいな、ね。


そういう、かわいそうっとりも解放しとく。

私はもっぱら、文章化しながら解放している。
文字にすることで、そしてそれをブログとして、
サーバーにアップすることで、確かさが増してはっきりするからだ。

読み直すことなんてほとんどないのだけど。



ドラマにハマりすぎないこと。

ここに気をつけると、解放はただの作業となってらくちんです。
ああ、ここの計算まちがっとった、くらいの感じ。


今回の収穫は「続いている」と思っていたのをみつけたことだ。
続いていると思うと分厚く感じる。
実際には今しかないので、続いていると思うのは錯覚にすぎない。

これを体の痛みに応用できないか、と思っている。
継続した痛み、と私は捉えている。
瞬間に凝縮したら、この痛みはどうなるんだろう?



ちょっとそのへん、暇な時にみてみようかな。