KOBONBLOG -245ページ目

返ってくる訳がない…、常識でしょ…

いよいよ明日、プーチン氏が来日するようです。
北方領土問題がどうなるのか、マスコミでも結構色々と予想しているのです。

で、その予想ですが、どうも「進展せず」が大方の見方のようです。

 

 

私が昨日見たワイドショー番組の中で、市民にアンケートを取っていたのですが、その質問項目に「返還交渉が進むと思いますか」という質問に対して、最も多い答えが「思わない」だったのです。
まぁ、日本国民もだいぶ冷静な判断が出来るようになってきた、といえるのでしょうか。

 

しかし私にはとても不思議な感じがするのです。

私たち年長者にとって、この北方領土問題はだいぶ古くからある、まさに「古くて新しい」という問題なんです。

そういう私たちの年代の者にしてみれば、以前、そう、40年ほども前から続くあの「狂騒」はなんだったのだろうか、という気がするのです。

つまりは、日本国民が冷静になってきている、というより、はっきり言えば「マスコミが冷静になってきている」という感じでしょうか。

 

マスコミが冷静になってきたから、それに影響されて国民も冷静になってきたのか、それとも国民が冷静になってきたから、それを受けてマスコミも冷静さを取り戻している、ということなんでしょうか。

いや、難しいです、これは。

「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があるのですが、そうだなぁと、今、ほんまにそうやと思えるのです。

マスコミと国民世論は、まさに歌と世の関係と同じかもしれないと。

 


さて、私の感覚では、40年、30年ほど前の「国民世論」か「マスコミ」か、どっちか分からないのですが、いずれにしても国内の基本論調は「北方領土は即時返せ!」「正義は我にあり、政府は毅然としてソ連政府に主張しろ!」「妥協するな!」という感じの大合唱だったように思うのです。

今とだいぶ様子が違う印象があるのです。
これは私だけがもつ感覚なのか、それとも私より上の世代の者たちはみなそう思っていることなのか、それも疑問ですが。

 

なんでしょうか、この「変化」は。

そしてまた私自身の中でも、この北方領土問題については認識の変化もあるのです。

以前は日本側だけの主張を、その正当性の主張だけを聞かされて、ソ連(ロシア)側の主張など一顧だにせず、それは丸ごと否定して、相手を「盗人猛々しいとはこのことだ」として非難し、とにかく「一歩も引く理由などない。政府は毅然として戦え」みたいな主張だけが正義として日本国内の世論というかマスコミ主導の空気が漂っていたのです。

そして私たちはそういう空気の中で育って来ていたのです。
それを疑うこともなく。

 

しかし、この歳になって初めて分かったことがあるのです。

何かといえば、ロシア側は昔から一貫して「戦争で勝ち取った領土は絶対に返さない」国であるという事実を。

そしてそれは一人ロシアに限ったことでなく、西欧諸国全般にわたってそうなんだということでした。

彼らは「莫大な犠牲を払って勝ち取った領土を、なんで返す理由がある?むしろ返して欲しけりゃまた戦争で取り返せよバカ」と言いたい訳だと。

 

かつて日本は日清戦争の折り、リャオトン半島を分捕ったのは良かったのですが、それを「返せ!」と主張され、泣く泣く返還したという事件(三国干渉)を経験したのですが、ロシアの認識はその当時の領土問題についての認識と全然変わっていないと思われるのです。

 

もちろん、日本側の主張にはそれなりに理があって、ソ連側が当時きわめていい加減なやり方で、国際的常識を無視したような非道なやり方で北方領土をかすめ取って行ったという事実はあるのでしょう。

 

ですから日本がソ連の非を責めて、「返せバカ!」と叫ぶのも当然ではあるのです。

しかし、どれほどそれが非道で無法でメチャクチャな行為であっても、それを言うなら戦争そのものが大メチャクチャな事がらなんです。

そういう大メチャクチャな中で、ソ連が小さな局面で小メチャクチャをしたからといって、それを「メチャクチャしやがって!」と非難しても、相手には通じない話なんでしょう。

それを言えば相手だって「お前のやらかしらメチャクチャはどないやねん!!」と返されるだけで。

 

そしてロシア国民はそういう自分たちの小メチャクチャの事実を全然知らされていないのです。

ロシア国民にしてみれば、日本が4島を返せと言ってきていること自体が、「日本はなんかおかしなことをいつも言ってくるよね・・・」ということくらいにしか見ていないのでしょう。

そしてもし政府が4島を返すなどと言いだせば、そっちこそを「頭狂ったんかプーチン?!」として大騒動が勃発すると。

 

そんなロシアに「北方領土を返せ!」なんて主張することは、もうハナから間抜けな話なんです。

いや、そう主張することは「正義」なのかもしれないのです、正義、正しいことかも。

しかし、現実、もう70年も前から、ソ連時代もロシア時代も、彼らにとっては「返すつもりなんかない」というのが基本前提だということです。

彼らにとっての唯一の原理は、「戦争で得たモノ(領土)は、元々返す理由などない」というものだと。

 

それがロシア国民とロシア政府の前提なんですから、「返せ!」「返せ!」と日本がどれほどノー天気に叫んでいても、はっきり言って100年経っても返ってくることはないのです。


そういうことを、我々が若い時代に、誰がそう国民に教えたでしょうか。

マスコミも、政治家も、国民も、みんな一丸となって「ソ連は悪い!」「ロシアは間違っている!」「政府か弱腰じゃダメだ、毅然として我が方の立場を主張しろ!」「妥協するな!」というような方向だけで走ってきたのです。

 

いやはや、そんなんで解決するはずがないのです、ハナから。

当時の政治家たちはそんなことも知らないで交渉に臨んでいたのでしょうか・・・、

むしろそれの方が気になるくらいです。

 

そして当時は「北方領土なんでいらないよね」、などと言おうものなら、「非国民かお前は!」と、「お前には故郷を奪われた島民の気持ちが分からないのか!」として糾弾されていたでしょう。


ふ~~・・・・、


そういうことを知らないまま来た私がバカだったのでしょうか。

それとも、私一人がそうではなく、およそ大多数の国民がそのように洗脳されたかの如くにいたのでしょうか。

私にはどう考えても後者が真実のように思えるのです。

 

私は今となって思うのです。

もう北方領土なんか返還されなくていいじゃんと。

むしろ返還されたら金がかかってしょうがないじゃんと。

むしろ返還させるためにロシア側に膨大な額の経済援助をすることになるのなら、それはもう国益の毀損になるだけじゃないのかと。


いやいやいや、択捉島や国後島に住んでいた元島民の人たちにとっては、返還は「悲願」なのかもしれないのです。

返ってきて喜ぶ人たちも事実いるのでしょう。


しかし私はもう思うのです。

北方領土は、ロシアが「どうぞ受け取って下さい」として、「熨斗をつけて返す」気持ちになって初めて受け取ればよいものだと。

 

 

いやいやいや、この40年間の動きは、凄い変化だ・・・

40年前、この今の日本の論調を、誰が予想出来ていただでしょうか。

マスコミも、政府も、政治家も、誰も自分たちのあの当時の「ダメ発言」を反省も総括もしないのです。

みな言いっぱなし、喋りっぱなしです。

朝日だって、戦争時代に戦争を煽った記事を書いていたことなど、露ほども懺悔も反省もしていないのです。


ムムム・・・・、

いいんだろうか、そんなんで・・・・


さてさてプーチンさん、どんな顔で来日することやら・・・。

 

ではでは。
 

ご紹介(マグロ問題系)

ちょっと風邪を引きまして、参ってます。
今日は一日中寝て過ごすつもりにしているのです。

で、ちょっと気になる記事を見かけましたのでご紹介だけ。

 

 

◆勝川俊雄公式サイト◆
~日本の漁業を成長産業に~
『マグロの国際会議で日本がフルボッコにされたようです』
http://katukawa.com/?p=6120
2016-12-09 (金) 
大変なことになりました。マグロの国際会議で日本がフルボッコにされたようです。
12月5日~9日に、フィジーで西太平洋のカツオやマグロの漁業管理を議論する国際会議WCPFCが開催されました。そのなかで、クロマグロの決議が前代未聞の紛糾をした模様です。
クロマグロについては日本が中心となり、北小委員会という独立した組織で協議した内容を本会議で承認することになっています。北小委員会は、議長も事務局も科学委員も全部日本が仕切っています。これまでのWCPFCでは、日本が北小委員会を仕切って決めたことが、ほぼ自動的にWCPFC本会議で承認される仕組みになっていました。
今年の北小委員会では、米国が中長期的な回復計画をたてようと提案したのに対して、過去最低の稚魚の加入が3年連続しない限り漁獲にブレーキをかけないという日本が対立し、新たな規制が何ら合意できませんでした(詳しくはこちらをご覧ください)。この北小委員会の決定に対して、本会議では非難囂々のようです。リンク先にある記事を書いたのはParties to the Nauru Agreement(PNA)という、ミクロネシア、ナウル、パラオ、パプアニューギニアなどの島嶼国の巻き網漁業の団体で、自然保護団体ではありません。他国の漁業団体から見ても論外な状況なのです。
(以下略)

**********************

 

いやいやいや、どうなんでしょうか、よく分からないのですが・・・

 

確かに言えることは、日本人ほどマグロを食べている国民はいないでしょうから、太平洋からクロマグロが消えつつあるとき、その原因、理由の一端として「日本が取り過ぎているから」ということがあるのは、さすがに否定できないことのように思えるのです。

 

よく分からないのではありますが、関係者の方々にはくれぐれも目先の利益に惑わされて、本当の大きな国益を棄損することのないように慎重に対応して頂きたいものなのです。

 

しかし、それもこれも上記の記事が「真実である」という前提の上での話ですので、もしこの記事自体がいかがわしいものであるなら、その限りにあらずになるのです。

 

私はこの記事の信用性についてはなんとも分かりませんですの、あまり無責任なことは言えないのですは、ま、仮に真実なら、ということで・・・。

 

ではでは。

天皇制は、大きく変化させるべき

天皇の譲位問題がなかなか難しい局面に差し掛かっているようです。

 

 

というのも、有識者会議とやらに呼ばれている高名な方々の中でも、ご意見が割れてなかなか「これ!」という名案が浮かんでこないようなことだからなんです。

まぁ、問題は結構分かりやすい訳でして、要は

 

①天皇さんのご意思を尊重して、できるだけ早く退位させて上げたいので、とにかく後先考えずに特例法でもいいからまずは皇太子への譲位を急ぐべくなんとかしろ、という主張(国民多数派)と、

 

②後先考えずに下手に譲位を実行するなら将来的に禍根を残すことは明白なので、まずは将来的に天皇制を確固としたものとして残すべく、それを担保した上で、できるだけ早くに譲位を実現すべき、もしそれができないならここは今上陛下に我慢してもらうしかない、という主張(専門家各位)、

 

の対立でしょうか。

私も個人的によく知っている、また尊敬してもいる今谷明先生(帝京大学特任教授)なども、その後者の考え方を表明しているのです(昨日の産経新聞紙上)。

http://www.sankei.com/politics/news/161207/plt1612070007-n1.html

 

それに対して小林よしのり氏などは、そのブログ上でこの今谷先生に猛烈な勢いで攻撃を加えているのです、曰く「叛逆者・今谷明は完全にイカレている」、「今谷明、おまえはさっさと隠居するか、切腹しろ!」という。

http://yoshinori-kobayashi.com/11962/

 

いやいやいや、私は小林氏も以前からその考え方には、基本好意をもって受け止めてきているのです。

そういう訳で、その両人がこの問題では真っ二つに対立している訳でして、もし私がこの両人の抗争に巻き込まれ、踏み絵を踏まされるようになるなら、お前はどっちに味方するねん?ということなんです。

いやいやいや、こういう踏み絵は困らされるのです。

 

でも、まぁ、「どっちやねん?」としてあえて答えるなら、私は小林氏の方向でしょうか。つまりは①派であると。

ただ、私は小林氏のようにそこまで口汚く②派を罵るものではないのです。

じゃあ私は将来的なこととして、天皇制の未来の在り方についてどう思っているかというと、以前にもここで書きましたが、ついには無くなっても良いというものです。


そこまで言うと、小林氏から「お前は天皇制否定論者なのか?!」と突っ込まれそうですが、さにあらずです。

私は「皇室大好き人間」ではあるのですが、でもそれはイコール「天皇制よ永遠であれ!」的なガチガチ天皇制維持原理主義者ではないということです。

 

時代は過ぎ行くのです。

いつまでも現在がそのままの形で維持されなければならない理由はないのです。

もちろん、良き伝統は良き伝統で残したらいいのですが、しかし、残らないもの、残すことが無理になったものをまで、それを無理無理残そうとするなら、それは時代に取り残された古い考え方として退けられなければならないでしょう。

天皇制だって、例外ではないのでしょう。

 

明治以前の天皇制と、明治以後の天皇制ではえらいこと異なっているのです、内実は。

明治以前の在り方をそのままに残すことなど出来なかったからこそ、明治になって大きく変えられたのです。

そして明治以後の在り方をそのままに残すことが出来なくなったからこそ、戦後にこれまた
大きな変化が起こったのです。

そして今、戦後70年経って、もはやこれまでのままのシステムではもたなくなっているのです。

 

その根源的理由は、「天皇家には基本的人権がない」という事実です。

今の混乱を見れば分かるように、天皇には「自由がない」のです。

もう天皇を辞めたいんだけど、と言っても、「法律上」そんな自由は許されていないのです。

とにかく天皇家には自由がないのです。

そんな不自由な中に、まさに「閉じ込めておいて」こそ、今の天皇制は成り立っているのです。

 

そんなこと、どう考えたっておかしいのです。

つまりは、天皇家に「自由を与えたい」と思うなら、もう現行のシステムは維持できないし、逆にこれまでの天皇制を変えずに、そのままの形で維持したいと思うなら、そりゃ天皇さんには退位も何もそんな自由は与えられないのです。

「死ぬまでやっててね、それが決まりだから…」として。

 

今谷先生を始め、②派を主張する有識者の方々は、そういうことを言っている訳です。

つまりは、戦後70年維持されてきた日本の「国体」を、そのままに維持することが大事、それが第一義、それこそ重視されるべきとして、その前提から考える以上、そうならざるを得ないのです。

そして、「大変申し訳ないのですが、天皇さん、退位は無理です…、堪忍下され。とにかく死ぬまでやってて下さい」と言うしかないのです。

 

そして安倍首相始め内閣(政府)も、実を言えばこの問題はもう手を付けたくないのです。

憲法問題はそれ自体が大問題でして、第9条をどうするかだけでもえらいことなのに、これでまた第1条からしてどうするかなどと言い出したら、それこそ日本国の根幹をどうするかという、超大問題になってくるのです。

ですから、政府は出来るだけ穏便に出来るだけ小さな変更の範囲内でことを済ませたいのです。

それはまぁ、当然といえば当然のことで…。


いや、しかし、今上陛下は「一石を投じた」のです。

この投げられたボールに対して、さて国民はどう考えるかなのです。

政府はもうしょうがない、出来るだけ逃げたいのでしょうから、つまりは先送りしたいのですから、しょうがない。

 

しかし国民は自分たちの問題として、じっくり腰を据えて考えていく必要があるでしょう。

かつて70年前は、戦争に負けたという巨大な事実の前に、天皇制は大きく変更を余儀なくされたのです。

そしてもっと前の明治維新の時には、黒船襲来というこれまた巨大な外圧の前に、天皇制は変更を余儀なくされたのです。

さて、今度もまたそういう巨大な「外圧」を待ってしか変えられないのでしょうか。

 

「二度あることは三度ある」という言葉があるのですが、ま、あり得ることではあるのです。

ですが、私はそういう不可避の巨大な外圧の前に、否応なく変化を余儀なくされるような恰好でなく、自分たちの本当の思い、希望をそのままに実現することの方がどれだけ良いことかと思わずにいられないのです。

 

ウム、安倍さんにそれを要求するのは酷なんでしょう。

次世代の政治家にその道筋を付けてもらうしかないのでしょう。

それまで、現皇室の方々には、今まで通り「自由のない」、「非人間的な」、恐るべき過酷な状況を甘受しておれと、そしてその任務を黙って遂行していろと、そういうしかないのだろうなと。


う~む・・・、なんとお可哀そうなことであるよなぁ、と。

ま、しゃない・・・。

 

ではでは。

ご紹介(ギャンブル依存症への対策が大事系)

昨日、ここでカジノ法案についてちょっと紹介記事をUPしたのですが、今しがたまた一つご紹介したい記事を読んだのです。

 


一般社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」の代表でである田中紀子氏のブログ記事なんですが、(ウム、なるほど…)と頷けるものであったのです。

いずれにしても「マッチポンプが世界標準」って、知らなんだ…。

 

 

◆アゴラ◆
『「カジノを作って依存症対策をやる」マッチポンプが“世界基準”』
(by 田中紀子 2016.12.5)
http://agora-web.jp/archives/2023027.html
 IR法案が審議入りし、本日衆議院を通過するであろうことから、にわかに「ギャンブル依存症」が大々的に取り上げられることとなりました。

 一般社会の皆様も、突然のことでこれまでギャンブル依存症の事など、気にしたこともなかった・・・という方々も、否応なく耳にし、初めてこの問題について考える羽目になった、という方もいらっしゃるかと思い、今日から、日本のギャンブル依存症問題について書いていきたいと思います。

 まず、現在ツイッターなどで、よくみかけるのは、 「カジノを作って、依存症対策をやるなんてマッチポンプだ!」というご意見です。

 一般の皆様方がそう思われるのは、無理もなく有難いことですが、実は、それが世界のスタンダードです。

 例えば、こちらの資料にある、カナダの場合を見て頂いてもお分かり頂ける通り州ごとに売り上げの何パーセントかを、チャリティー費、ギャンブル依存症対策費、リスポンシブルゲーミング費に振り分けると書いてあります。
Canadian Gambling Digest 2013-2014 (Canadian Partnership for Responsible Gambling. August, 2015. )

 リスポンシブルゲーミング費というのは、この資料の見解では、「地域社会やギャンブルの供給者、政府等がギャンブルに関連するリスクを生み出す責任を共有し、ギャンブル依存症を予防または最小限に抑える環境を作り出し、促進し、ギャンブルに関する地域社会の懸念に対応するもの。」とあります。

 それにしてもすごい金額ですよね。
 単位はカナダドルですから、為替の変動があるとしても現在の1カナダドル=およそ85円で計算すると、カナダ全体でおよそ70億円位、依存症対策費を拠出しているってことになりますよね。その他に、リスポンシブルゲーミング費が出されていて、合計するとおよそ97億!

おまけにカナダの人口は、大体3516万人と日本の2/7ですよ!これだけやれば、カナダの依存症罹患率はかなり低いだろう・・・と調べたところ、案の定、カナダのギャンブル依存症罹患率は、2016年度に出されたMGMリゾーツ・インターナショナルの調べでは、0.8%とのことでした。日本のギャンブル依存症罹患率4.8% 推定罹患者536万人とは大違いですね。

 しかもこのカナダの仕組みを見るとですよ、チャリティ費よりむしろギャンブル依存症対策費が多く割かれていますよね。それに対し日本の公営ギャンブルって、売り上げの一部を福祉費にはまわすけど、このギャンブル依存症対策費、リスポンシブルゲーミング費には、まわされていないんですからね。変だと思いませんか?

最近は、日本財団さんは福祉分野の助成で大活躍してますけど、それこそ、まずはギャンブル依存症対策に大幅に割くべきじゃないでしょうか。

 その上、日本には24兆円の市場規模を誇る、パチンコがあるのに、そこに対して、ギャンブル依存症対策費の拠出を義務付けられていないって、あまりにも無責任過ぎやしないでしょうか。で、そのツケは、税金にまわされるわけですよ。
  例えば、ギャンブル依存症が進行してしまって、働けなくなってしまった・・・という人の生活保護費や、夫がギャンブル依存症で離婚せざるをおえなかったというシングルマザーに対する母子手当。さらには、犯罪を犯せば裁判費用から収監費用、もちろん被害者に対するケア他、自殺、失踪、うつ病などなど、様々な問題がおこり、それら全てを税金で賄っている訳です。

 これだけ財源不足の日本で、ギャンブル依存症問題によって、どれだけ多くの財源が使われていることか・・・
  それらは利益を享受している産業側が拠出することが、ある意味当たり前の社会ではないでしょうか?

 ですから、カジノができたら、その売り上げの一部で、ギャンブル依存症対策費を拠出するという理屈は、むしろやっと世界基準に追いついたのであり、マッチポンプというよりは受益者負担だと思っています。

 そして、これまでギャンブル依存症問題のために使われていた税金は、その分を是非、子育て他可及的速やかに取り組まねばならない、別の政策のために使って頂きたいと考えています。

 ギャンブル依存症はギャンブルをやらなければならない病気。だったら、「ギャンブルをやって欲しい!」と、一生懸命呼びこんでいる産業側が、責任を負担することが筋じゃないでしょうか。<了>

   * * * *

編集部より:この記事は、一般社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」代表、田中紀子氏のブログ「in a family way」の2016年12月5日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「in a family way」http://officerico.co.jp/blog/をご覧ください。

 

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いや、カジノを作って観光客を呼び寄せるという経済効果を目指すより、それによってパチンコ産業をなんとかするとか、またパチンコに代表されるギャンブル依存症をなんとかする、ということの方を第一義にして、この法案を考えてもらいたいと思うのです。

むしろ経済効果は付随的なプラスαでいいと。

 

ではでは。

カジノ法案、ねぇ・・・、シンプルじゃないわ・・・

いや、政治の世界はシンプルでないのです。


最近、どうも国会では「カジノ法案」なるものが審議されており、どうも与党の賛成多数で可決される方向になっているとか。

 

 

それでマスコミの報道ではどうも野党の主張をなぞるような形で、「それでいいのか?」「拙速なのでは?」というような報道姿勢のような気もしているのです。

 

かくいう私も、先ほどまでは「カジノ?あかんちゃうの?ギャンブルを公認してそれで儲けるっちゅうこともなぁ、経済効果的にはいんだろうけど、感心しないよなぁ・・・。没の方がいいんちゃうの?安倍さん、分かってんのかなぁ・・・」などとして、お気楽に「とりあえず反対に一票!」という気でいたのです。

 

しかし、今しがたネットで『現代ビジネス』誌面で高橋洋一氏の寄稿している一文を読んで、「こりゃあかん。こりゃ確かにカジノ法案にも一理あるわ。ウム、パチンコをもっと厳格に取り締まって、それで正規のギャンブル場だけに賭博は限る、ということの方がいいかもなぁ・・・」などと、コロッと意見が変ってしまったのです。

 

ウム、言われてみれば確かにパチンコは実質上の賭博であって、しかも韓国、北朝鮮系に資金が流れているとも考えられる状況でもあるのです。

 

う~む・・・、

問題はシンプルじゃないのです・・・、いつだって・・・。

 

私のようなシンプルな人間だけが、いつでもシンプルにマスコミに洗脳されてフラフラしているのです。

 

う~む・・・、

困ったことだ、マスコミも、私も・・・。

 

 

◆現代ビジネス◆
『民進党、官僚、マスコミがこぞってカジノ法案に反対する「裏事情」』
~「ギャンブル依存」はタテマエでしょ?~
(by 高橋洋一)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50370
・・・
■パチンコはOKなのに?
 犯罪の予防という名目によって、全国管区警察局長ごとに天下りの「縄張り」が決められ、警察官僚の天下り利権にもなっている。パチンコは実質的には「民間賭博」であるが、法的には風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風営法)で規制されており、「警察の所管」という形になっているからだ。
 もっとも、このシステムのために、パチンコ店では景品を出し、パチンコ店のすぐそばの景品交換所でその景品をおカネに交換するという、刑法賭博罪的にグレーな運営(形式的には賭博でない!)が採られている。これに対して、カジノ法案では、パチンコのようなグレーな方法でなく、カジノを真っ正面から健全娯楽と位置づけようとしている。カジノ法案が成立すると、パチンコはどうなのか、といる議論も予想されるが、それが警察官僚には鬱陶しいだろう。
 もちろん、パチンコを巡る話題はこれだけでない。パチンコは大きな産業であるが、経営者の出身はその多くが韓国、北朝鮮であり、日本系は少数といわれている。また、パチンコは脱税の多い業種である。毎年国税庁から公表される「法人税等の調査事績の概要」をみると、法人税の不正発見割合では毎年上位になっている。
 おそらく、パチンコ業界は、この際カジノに乗ってビジネスチャンスにしようという人と、カジノをつぶしてパチンコを守ろうという人と二分化されているのだろう。それが、カジノ推進派と反対派の背景になっているのだと推察される。
 マスコミ報道では、カジノ推進派はカジノ経済効果を主張し、カジノ反対派がカジノの弊害を強調するという構図であるが、根っこには、パチンコ業界内部のカジノ推進とカジノ反対が関係しているのではないか、と筆者は邪推している。
 これは、パチンコをどのように理解するかという本質的な問題になってくる。筆者にとっては、パチンコという「実質的なギャンブル」が街中にあることにかなりの違和感を抱いている。
 厚労省の調査によれば、日本人の成人の4.8%がギャンブル依存症とされている。これは、米国1.6%、香港1.8%、韓国0.8%と比較して高いという。パチンコなどが身近であることが、海外より数値が高い理由の一つであろう。たしかに、これだけ身近に事実上のギャンブルがある国は珍しい。
 また、法的にはパチンコは賭博でない、となし崩し的に扱われているのにも違和感がある。世界中で試みられているのは、ギャンブルを街中から隔離し管理して国民を守るというスタンスだ。ギャンブルがなくなれば、それにこしたことはないが、それができないので、次善の策が必要になる。カジノはその流れだ。

 

■野党がやるべきことはシンプル
 もしカジノを作り、そこへの誘導策を同時に実施すれば、街中のパチンコ屋は一気に衰退するだろう。そして、カジノは140ヵ国で認められた世界標準なので、外国人観光客も引き寄せて、大きな経済効果が出るだろう。
 つまり、カジノをきっかけにして統一的なギャンブル規制法ができればベストであり、その中で依存症対策などでマイナス面を減少させ、経済効果を最大化するという発想が必要だ。
 いずれにしても、今よりマシなギャンブルの規制作りをするためには、今回のカジノのプログラム法案は好都合である。それなのに、カジノ法案を審議拒否したら、今のパチンコの問題を放置することになってしまうだろう。それは、結果として、世界から異様に思われている「街中に事実のギャンブルがある状態」を擁護することになってしまう。
 責任ある野党というのは、「カジノ反対!」と口でいうばかりではなく、カジノで指摘される負の影響としてのギャンブル依存症問題、青少年への影響、暴力団対策、マネーロンダリングなどの対応策などで、政府案を凌ぎ、国民に喝采されるものを国民に提示することではないか。<了>

 

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いや、ご紹介まで。

 

ではでは。

天に召される

たった今、一報が入ったのです。

関のお姉さんから、「今、、ミノルが亡くなったって、兄さんから電話があった・・・」と。

 

もうあまり長いことはないだろうなぁと、誰もがそう思っていたでしょうから、その報を聞いても驚きはないのです。

むしろ、(良かった・・・、もう苦しむこともないのだから・・・)と。

 

ふ~・・・・

 

向こうの世界(あれば)に行って、すでに先立っているご両親に「来ました・・・」と語りかけているでしょうか・・・

 

人は死ぬものなのだなぁ、と・・・・、しみじみ思うのです。

 

死に行くモノなんです・・・、誰でも・・・、等しく・・・・

 

ミノルさん、

 

安らかに眠って下さい・・・、

 

お疲れ様でした・・・・

 

 

※)ちょっと訂正なんです。前回の記事で「あと4ヶ月」と書いたのですが、それは間違いで、トミから「あと4年」と言われていたのだと。

 

ではでは・・・

 

お見舞いに行ってきた…

昨日は、名古屋にいる義兄の病気お見舞いに行ってきたのです。

 

私の奥さん(トミさん)の兄で今年69歳です。

義兄(ミノルさん)は実は生涯独身で家族がいないのです。

親族は自分の兄弟姉妹だけです。

5人兄弟の3番目でウチのトミさんが末の妹です。

兄弟は順に長男、長女、次男、三男、末妹という。

年齢は長男75歳、長女72歳、次男69歳、三男67歳、妹65歳です。

 

それで、ミノルさんは昨年食道ガンが見つかり療養生活に入っていたのです。

手術をして一応は回復したようなんですが、でも今年秋になってリンパに転移しているのが分かり再び入院して抗がん剤治療をしていたようです。

ですがさすがにどうしようもなく、10月の中頃、主治医からはもうあまり長くはないと言われていたのです。

それで兄弟一同、これはもう今生のお別れをするしかないとなり、昨日11人(内、子ども3人)という大勢で見舞いに行ってきたのです。

次男のミノルさんは名古屋にお住まいでしたが地元は三重の亀山です。

長男さんと長女さん、三男さんは亀山在住ですので亀山からクルマで。

私たちは東京から遠征ですがクルマですので一人も三人も同じですので、今回は娘も同道したのです。

 

病院は「名古屋ろうさい病院」ということろで病室は7階にありました。

7階の北側窓からは遠く北アルプスが望まれ白い冠雪が見えているのでした。

一同が個室にいるミノルさんのベッドの周りにそろって「来たよ」と声をかけたのです。

点滴をされながら横になって窓側に体を向けて眠っていたミノルさんは長女のお姉さんから「みんな来てくれたで、東京からもなぁ・・・」という声に目を覚まし、体を捻って周りを見やったのです。

さすがに大勢でベッドの周りを取り囲みましたので、ミノルさんもゼスチャーで体を起こして欲しいと意思表示したのです。

それですぐに看護婦さんに来てもらいベッドわきのリモコンでベッドの背面をゆっくりと上げて上半身を45度くらいにもち上げてもらったのです。

 

ミノルさんはもう面影もないほど顔もほっそりし体も痩せていたのです。

右腕には点滴が繋がれ、聞けばもう点滴だけで生きながらえているそうで。

言葉も発せないのです、どうも痰が絡むようで。

お姉さんが「~~やろ?そやろ?」という感じで意思の確認を促して初めてゆっくりと頷くことでイエスの意思表示をするだけです。

ミノルさんが、皆の顔を見て驚いたような表情を見せたことは確かなのです。

ですが、嬉しいとか喜ばしいとか、そういう感情がストレートに表れることはなかったのです。

かろうじて、うっすらと嬉しそうな、口元が緩むような印象はあったのです。

 

ただ、救いは、ミノルさんの目は澄んでいたのです。

遠くを見つめるような、遠い世界を見つめているような感じで、思惟や感情という人間臭い世界を超えた静かな世界に、もうすでに半分行っているような目でした。

自分の命が、もう後何日もつのか、それすら気にならなくなっている世界にいるのかもしれないのです。

 

もちろん、それはミノルさんが病室の外の景色を眺めているときの目ではないのです。

一人一人の顔に視線を向けて、一人一人の顔をジッと見つめているのですが、でもその視線の先は、どうしようもなく遠い世界を見つめているように私には感じられたのです。

私にはなんだかそれが救いのように思えたのです・・・、その澄んだ目が・・・


見舞いに来た者も、もう分かっているのです、これが今生のお別れだということが。

きっとベッドに横たわるミノルさんも分かっているのです、今生の分かれに来てくれたことを。

そんな場で、どんな言葉をかけたらいいのでしょう。

私は、いよいよ帰る間際の挨拶の言葉に「じゃあ、ミノル兄さんも頑張って下さい…」と口に出したのですが、自分でも内心(何を頑張るちゅうねん!)と突っ込みを入れざるを得なかったのです。

そしてそんな状況に思わず笑ってしまうしかなかったのです・・・。

でもみんな「頑張ってや」というしかないのです。

 

関の義兄は「えらいやろ?えらいやろなぁ。だけど頑張ってや、頑張ってや・・・」と言ってくれていたのです。

たぶん、その言葉が一番相応しい言葉なんでしょう・・・。

えらいのです、

きっと苦しいのです、きっと大変なんです、

頑張ってや、というのは、「回復に向けて頑張ってや」ではなく「えらいやろけど、頑張ってや」という意味だったんです。

 

娘のヨシコが感情抑えがたく半分泣きながら「おじさん、頑張ってね!」と言ったのです。

私も溢れ出そうになる涙をこらえながら最初に病室を出たのです。

 

さぁ、ミノルさんの命はいつ燃え尽きるのでしょうか・・・、

1週間、半月、1ヶ月・・・、それはもう分からないのです。

点滴だけで命を繋いでいるのです。

もし苦しいのなら、もう死なせてあげて欲しいのです。

延命措置は、もういらないよと、言いたいのです。

でもお医者さんも、どうしようもないのです。
仮に意図的に命を永らえる措置を取らないとすれば、それは消極的自殺幇助になってしまうのですから。


ミノルさんは、どうなんだろう・・・・、

生きたがっているのでしょうか・・・、

それとも、苦しいので、もう早く楽になりたいのでしょうか・・・・、

 

ミノルさんはもう主治医から聞いているのです、

10月頃には、もう長くても4ヶ月と・・・


死を待つ日々・・・・


人間の寿命って、何なんでしょうか・・・

「ピンシャンコロリ」という死もあれば、

ミノルさんのような、「静かな、静かな死」もあるのです・・・


ウム、いずれ私もその日を迎えるのです・・・

私の死は、どんな死なんだろう・・・

 

ただ、願うのは、悲しい死はいらないよなと。

面白い、笑って死ぬような、周りの人が、「あいつ、死ぬまでバカだったよな(笑)」と言って泣き笑いしてくれるような、そんな死を迎えたいものだと・・・

 

 

いや、とても不思議な感情に打たれた昨日だったのです。

 

ではでは・・・。

「本音と建前」の話

11月9日のトランプ氏当選という異例の展開を受けて、その分析について以降様々な言説が飛び交っているのです。


私も大変興味を惹かれる事象ですので、色々読み漁っているのですが、それぞれに頷ける考察であり私はいちいち感心しながら読んでいるのです。

 

その中でも一つのキーワードとして「PC(ポリティカル・コレクトネス)」という言葉と、「本音と建て前」という言葉が出てきたのですが、私もこの言葉については以前より大きな関心を寄せていることもあり、(ほぅ~)として読んでいたのです。

 

で、私も何か言いたくなったという。

 

私の理解している「本音と建前」という言葉は、まぁ大体、「建前」とは、理屈上、ロジカルなこととして公の場でそれが通る話であり、「本音」とは公けの場では言えないこと、とか、ウチウチの場でなら遠慮なく話せること、というようなことでしょうか。

 

ちなみに、wikiでは以下のように出ているのです、
「本音と建前」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%9F%B3%E3%81%A8%E5%BB%BA%E5%89%8D

 

 

参考までに、これを「交渉術」とか「外交術」という観点から上手に解説してくれているサイトがありましたので、

◆キャリアパーク!ビジネス◆
「本音と建前の上手い使い方とは」
https://careerpark.jp/50831

 


さて、この「本音と建前」という言葉は、おそらく人によって理解のされ方がずいぶん異なるものであるような気もするのです。

 

たとえば、この「本音と建前」を使いこなす人がいた時、それを「あの人は裏表がある人だからね」としてマイナスに評価する人もいるでしょう。

 

逆に、いつでも本音の直球勝負をする人を見て、「あの人は年がら年中歯に衣着せず言いたいことを言ってるけど、ムカつくよね」としてマイナスに評価する人もいるでしょう。


そしてまたウィキにもあるように、日本人は諸外国人に比べてどうも交渉の場などでは、最初ニコニコと愛想よくしているのに、いざとなると全然「ノー!」となったりして、よく分からない人種みたいに受け止められているとか。

 

つまりは「本音と建前」を上手に使いこなしているので、それがそういうことをしない人たちには受け入れられないという。

 

「キャリアパーク!」さんのところに書いてあるように、確かに「建前」は「嘘(うそ)」でもあるので、もし建前を使う人を「うそつき」として非難するなら、それは確かに「うそをついた」という事実は否定し難いことかもしれないのです。

 

ですが、そこから先に、「じゃあ建前は必要ないのか?」ということまで行くと、今度はPC問題に直面することになるのです。

 

本音と建前の問題をPCの側からみるとこう言えるでしょうか。

つまりは、PCに引っかからない範囲の言葉や主張が建前であり、PCに引っかかってしまう内容の言葉や主張が本音になると。

 

例えば、昔どこかで聞いた話ですが、アメリカで男(白人)がいて、その人物が公的な場面では「人種差別はいけない!」と主張していたのに、いざ自分の娘が彼氏(黒人)を連れてきて「結婚したい」としてその男に紹介したら、その男が「よりによって黒人かい??!!」として急に反対しだしたという。その話はありそうな話です。
 

日本でも以前は(今でもあるかもしれませんが)よくあった話ですが、被差別部落の娘さんと結婚しようとした一般の男が、家族や親せきから大反対されたというような。

 

その際にも、反対した両親も、仮に他人事なら「差別はよくないですよ」として、公言している場合が多いだろうと。

 

人種差別も部落差別も、それが他人事なら「差別はいけないです、私は人種差別は反対です!」と主張している人も、いざ自分の問題となると途端に「黒人はダメ」とか「部落はダメ」とか言い出すのです。それは「本音と建前」ということかもしれないのです。

 

さて、私は基本的に「差別はいけない」と単純に思っていないのです。というより、自分が何か差別的なことをしていて、それを正しいこととして正当化したいということではないのです。

 

私が言いたいことは、差別をする人、差別をしたがる人、差別を肯定したがる人がいる時、その時にその人たちを「差別主義者だ!」として糾弾することはむしろいけないことだと思っているということなんです。

 

差別したくなるのは、基本的な人情です。もちろん、その人情を「良い人情」と肯定する訳ではありません。それはどちらかというなら「良くない人情」です。あるいは「間違った人情」です。

 

ですが、そういう間違った人情をもつ人たちを、「お前ら間違ってんねん!謝れ!」みたいにして糾弾する、非難する、攻撃することもまた「良くないこと」であると。

 

もしそういう風に、人を非難し攻撃し謝罪を要求する傾向の人たちは、実はその人たち自身の中に、それと同じような「良くない人情」が潜んでいるのです。

 

つまりは、そうやって攻撃的に非難したり糾弾したくなること自体が、「良くない人情」であると。

 

今、アメリカでPCが凄い勢いで社会を覆い始めているようですが、どうもそれは、ちょっと行き過ぎた側面があるんだろうなと思えているのです。


今、日本ではいわゆるネトウヨと言われる人たちが一定数いて、どうもそういう人たちがヘイトスピーチなどして嫌韓運動にいそしんでいるとか。

 

逆にまた、左翼系の人たちは人たちで、声高に右翼系の政治家を攻撃非難論難するのです、敵として。

 

結局お互いにお互いの「非」を声高に非難し攻撃し糾弾するという方向に動くことになっているのです。

 

それは良くない人情、良くない感情からくる、理性的知性的判断を歪めることの結果として生じて来るものと思えるのです。

 

もう少し普遍化するなら、左翼と右翼がどうにもお互いに「敵視する」傾向が強いのですが、それは良くないことであると。

 

なぜなら右翼系の根本は父性原理からくるものであり、左翼系の根本は母性原理からくるところのものであり、基本的には両者五分五分の理由で存在意義が肯定されるべきものであるからです。

 

 一軒の家の中で、父親と母親が敵視しあってどうするのですか。もちろん、父性と母性の根本は基本的に相矛盾する原理に基づいているのですが、しかし相互に反発しあうトレードオフの関係にあるからといって、イコール敵対関係になる理由はないのです。

 

それは一人の人間の中に、「理性」と「感情」という二つの相矛盾する根源的命が併存していることと同義であり、自分の中で、その理性と感情が「葛藤する」ことはあっても、それは「敵対する」ことであってはならないのと同じだろうと。

 

いずれアメリカも現状の行き過ぎたPC運動に反省の目を向けるのでしょう。どれほどPCを強力に推し進めたとしても、それで差別が無くなるかといえば、きっとあまり良い影響はないのです。

 

むしろマイナスに作用するばかりで。攻撃や、非難や糾弾は、どうしても生産的でないのです。結局それは「良くない人情」「良くない感情」の表れでしかないからです。

 

じゃあ、どうしたら差別は無くなる、無くすことが出来るのでしょうか。

 

ウム、結局それは・・・、「愛」なんでしょうかねぇ・・・、

私もまだよく分からないのですが、でも言えることは、「教育じゃない」という。


「で、結局何が言いたかったねん?」ということなんですが、

そうですねぇ・・・、

「建前」、って、基本的に「偽善」でもあるんだと思うのです。

で、偽善も必要な時があるんだろうと、そう思えてもいるんです。

ただ、真善の知恵に裏打ちされた偽善と、偽善だけで良いとする浅はかな偽善とを区別して使い分けする必要があるんだろうなと。

そうも思えるのです。

 

そういう観点から、「建前」は必要だし、であるからこそ、「ビジネスパーク!」の主張のように、本音と建前を上手に使いこなすことが大事なことだと、それは同意したいのです。

 

いや、何か言いたかったのですが、どうにも纏まらない書き散らかしたようなことになってしまい、こりゃあかん・・・、でした。

 

ま、しゃない・・・。

ではでは。

ご紹介(溶けていく建前…系)

現代ビジネスを読みに行ったのです。
そしたら、何と、高名な哲学者の内山節氏が寄稿していたのですが、そのテーマが「本音と建て前」という。
こりゃ読まない訳にいかないということで、読ませてもらったのです。
で、こうなりゃいきさつ上ここでもご紹介しない訳にもいかないと。
(是非レベルβ)

 

 

◆現代ビジネス◆
『溶けていく近代社会の「建前」』
~「本音」ばかりが跋扈する時代へ~
(内山 節 2016/11/29))
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50307
 次第に国家が意味を失っていく、いま世界はそんな時代に入りはじめたのではないだろうか……。哲学者・内山節が世界の大きな潮流を読み解く新連載第2回。はたしてトランプ勝利が意味することとは?

 

■理念より現実
  ・・・・

 20世紀の社会は、このようなさまざまな努力を積み上げることによって、近代社会の建前に実態を伴わせようとしてきたのである。
 だがそのような努力があったとしても、建前は所詮建前にすぎない。完全なかたちで実現することはないのである。
 さらに1991年にソ連が崩壊し、「資本主義の勝利」が謳歌されるようになると、私たちの社会は建前を守ろうとする努力への熱意を失っていった。
 再配分システムの強化よりも自分のものは自分で稼げといった風潮が高まり、すべてのことを市場で決めようとする市場原理主義が跋扈していく。企業や高所得者への減税などがすすめられ、社会保険、社会保障システムも劣化していくことになった。企業もまた安定雇用のために努力しなくなり、それは格差社会や非正規雇用の増大を生んでいく。
 こうして生まれてきたのが、本音の時代だったといってもよい。

 

■上からも下からも本音が噴出
 近・現代社会は、建前と本音の衝突を内蔵させながら、建前を守ることによってつくられた社会なのである。
 建前としては自由、平等、友愛があり、民主主義や人々の豊かさをめざす経済があった。だが本音としては、自己や自分の企業活動の自由であり、それぞれの最大利益の獲得だった。簡単に述べれば、自分が勝者になればそれでよいのである。
 民主主義は多数派の横暴にすぎないし、自由は自分の自由のためのものだ。近代社会はそういう本音もまたもっている。
 建前を大事にし、本音を隠す。それが近代社会の作法だったといってもよかった。

  ・・・・

■なぜトランプが勝ったか
 建前の社会を代表したのはクリントン候補だったが、もはや彼女は建前の代弁者だとはみなされていなかった。建前を掲げることによってエリートたちの利益を代弁する本音の政治家だと思われていたのである。建前が本音の手段に使われていると思えばいい。
 それに対してトランプ候補は、ストレートに人々の本音に語りかけた。イスラム教徒や移民の排斥、アメリカ第一主義。それらは有権者の本音を揺さぶる方式だったといってもよい。こうして大統領選では、本音と本音がぶつかり合うことになった。
 ところで大統領選の得票をみると、「没落した」白人だけでなく、大学卒の白人や女性などの票もトランプ候補がかなりとっていた。おそらくそれはこういうことである。トランプ候補は、自分が当選すれは皆様は儲かる、ということを提示していたのである。

  ・・・・

(以下略)

***********************

 

ムムム・・・、

内山節さん、さすがに高名な哲学者であらせられます。

(なるほど・・・、そうかもねぇ・・・)と思わせて頂いたのです。

 

で、私の感想は、明日ちょっとまとめてみたいと思うのです。

 

ではでは。

ご紹介(She is beautiful, very beautiful, but…系)

最近発見して読みに行くようになったブログで、アメリカ在住の女性の方のブログがあるんです。
それで、今しがた読んでいたのですが、これは是非ともご紹介したいと思えまして。(是非レベルα)

 

 

これもまたPC(ポリティカルコレクトネス)との関係の深い大問題です。

私はイスラム社会も大いに自分たちの振る舞いを反省する必要があると思うのです。

最後に私の感想を少々。

 

 

◆苺畑より◆
『ティーンミスコンでブルキニ、ニュースアンカーがヒジャブ着用、小さなことから始まるモスレム侵略』
(November 28, 2016 移民問題)
http://biglizards.net/strawberryblog/
 軒先貸して母屋取られるとは日本の古いことわざだが、ことモスレムに関してはまさしくこれがあてはまる。彼らは人口が少ないときは小さなことから要求してくる。

 女性なら制服のある職場や学校で特別にヒジャブ着用を許可してほしいとか、男性ならお祈りの時間を特別に設けて欲しいとか、要求された側は多少迷惑ではあっても、そのくらいなら考慮してあげようという気持ちになる程度の要求だ。

 しかし、一旦こちらが多少なりとも譲歩したら、相手は感謝して満足するかといえばとんでもない。押せばなるとばかりにどんどん理不尽な要求をしてくるのだ。欧州各国で大暴れしているモスレムナンミンたちをみればそれは明らかなはず。

 

 カナダとアメリカでモスレム侵略の兆しがはっきりする出来事があった。先ずはカナダのメジャーなテレビ局で初のヒジャブを着用した女子アナが登場したこと。記事を詳しく読んでみたら彼女がヒジャブを着てテレビニュースを読んだのはこれが初めてではなかったようだが、今回はテレビ局が全国ネットだったことに意味があるらしい。

 別に女子アナがヒジャブをつけていたからどうのこうのということはないが、モスレムだけの特別扱いが私は嫌なのだ。しかも彼女は最近はモスレムに対する憎悪が広がっているなかで、ヒジャブを着てニュースを読めたことを誇りに思うとか何とか言ってるが、モスレムに対して起きている感情は憎悪というより恐怖だろう。ヒジャブはその恐怖の象徴だ。

 ヒジャブ女子アナは好評だったというが、当たり前だろう。カナダではやたらにモスレム批判など行なったら人権擁護協会から起訴された大金の罰金を課される恐れがあるのだから。悪評などきこえてくるはずがない。批判をヘイトスピーチとして違法にしておいて、好評だったもないもんだ。

 

 さて、ソマリア移民が多いミネソタ州では、10代少女たちが美を競い合うのミスティーンコンテストに、はじめてヒジャブを付け全身を覆うブルキニ(バーキニ)水着姿のモスレムティーンが登場。添付はそのビデオ。

https://www.youtube.com/watch?v=iaw1Zn1wTzk&feature=youtu.be

 ビデオを見ても解るとおり、彼女はブルカほどひどくはないがヒジャブと身体の線がほとんど出ないまっすぐな服を着て全身を覆っているが、水着に着替えてもそれは変らない。これじゃあ19世紀の西洋の水着よりひどい。

 だいたいイスラム教社会においてはミスコンそのものが受け入れられていないはずで、そういうコンテストにわざわざ参加してまるで身体の線が見えない姿で参加するというのはミスコンへの挑戦でしかない。

 彼女の目的はミスコンに参加することではなくて、ミスコンという組織そのものを破壊することにある。そのうち顔も身体も完全に覆うブルカ姿の女性をミスコンに参加させろと言ってくるんだろう。コンテスト運営者がこういう輩を最初から排除すればいいのだが、ポリコレに犯されたミネソタでそんなことが出来るはずがない。それで彼女が勝たなければ「イスラムフォビア」とかいって暴動をおこすつもりなんだろう。だから彼女が勝つことは先ず間違いない。

 

何度も繰り返す。

イスラムは惜しみなく奪う。<了>

 

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ウム、こういうことが何年も前からヨーロッパでもアメリカでも生じていて、ますます大問題になって行くんだろうなと思うのです。

 

問題は、「同化・融和」と「個性の主張」の相克にあるのです。

イスラムの人々は、自分たちの振る舞いが先住の人々にどのような反応や感情をもたらすかについての、繊細な感受性にちょっと欠けるきらいがあるのかもしれません。

 

「郷に入りては郷に従え」、あるいは「When in Rome do as the Romans do.」の精神をもう少し尊重する必要があるんだろうと、私はそう思うのです。

 

ただ、海岸でイスラム風の水着を着ることを禁止したりすることは、これはこれで頂けない話であり、こっちは「受け入れる方」にこそ、後から来る人々への繊細な配慮が求められることになっていると思えるのです。

 

いずれにしても、「先住者」も「移住者」も、双方に相手に対するリスペクト、繊細な思いやりが求められる訳で、それをお互いに「相手にだけ強くそれを求める」なら、そこには当然大問題が生じることになるのです。

 

ただ、この「コンテスト問題」に限って言うなら、そりゃブログ主さんの言うように、「出るならちゃんとビキニの水着も着なけりゃダメでしょ」と言いたいのです。それはもうルール違反でしょと。

もし主催者が出場希望者から、「ビキニ(水着)にならなきゃダメですか?」と問われ、それでPCでの批判が怖いので安易に「いいです・・・」と妥協したとするなら、それは主催者がちょっと対応を誤ったと言えるかと。

しかし、その出場を希望した女性が、「いいですか?」と問うこと自体もまた、ちょっとおかしいと批判されることになるだろうなと。

出る以上、最初からある「ルール」を受け入れて出るのが普通な訳ですから。

それが嫌なら出なけりゃいいのでしょうし。

 

いや、難民移民問題は難しいなぁと。


ではでは。