人気ブログランキングに参加しています。

まずはここをポチッとお願いします。

 

 

 

 

熊本地震に関係するお話。
 
昭和16年の小学校の「修身」の教科書に「布田保之助(ふた やすのすけ)と通潤橋(つうじゅんきょう)」が掲載されています。
 
戦前の子供達は「修身」という道徳の教科書で、先人の偉業や日本の誇りを学んでいましたが、戦後はそれらが一切消されてしまい、戦前の記憶がぷっつり切られてしまい、昔の日本人が知っていた先人の名前も偉業も全く知らない日本人になってしまいました。

  

当時、第五期(昭和十六年)の初等科修身三に書かれていた「布田保之助と通潤橋」を掲載いたしますので、ぜひ、一度は読んで頂きたく思います。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村(しろいとむら)というところがあります。
 
あたり一面、高地になっていて、緑川の水は、この村よりずっと低いところを流れています。白糸村は、このように川に取り囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。
 
それで昔は水田が開けず、畠の作物はできず、飲み水にも困るくらいでした。村人たちは、よその村々の田が、緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波が打つのをみるにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。
 
今からおよそ百年ほど前、この地方の総庄屋に布田保之助(ふたやすのすけ)という人がありました。
 
保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通の便をし、堰を設けて水利をはかり、大いに力を尽くしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人たちと一緒に、水のとぼしいことを、ただ嘆くばかりでした。
 
いろいろ考えたあげくに、保之助は、深い谷を隔てた向こうの村が、白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみよう、と思いつきました。
 
しかし、小さなかけいの水ならともかくとして、田をうるおすほどのたくさんの水を引くのは、なまやさしいことではありません。
 
保之助は、まず木で水道をつくってみました。ところが、水道は激しい水の力で、ひとたまりもなく壊され、堅い木材が深い谷底へばらならになって落ちてしまいました。
 
けれども、一度や二度のしくじりで、志のくじけるような保之助ではありません。今度は、石で水道をつくろうと思って、いろいろ実験してみました。
 

水道にする石の大きさや、水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や、吹きあげ方など詳しく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から、一滴も水を漏らさないようにする工夫には一番苦心しました。

 
そうして、やっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。
 

 

藩の方から許しがあったので、一年八カ月を費やして、大きなめがね橋をかけました。高さが十間余り、幅が三間半、全長四十間。そうして、この橋の上には、三すじの石の水道がつくってありました。
 
始めて水を通すという日のことです。保之助は、礼服をつけ、短刀を懐にして、その式に出かけました。万が一にも、この工事がしくじりに終わったら、申し訳のため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。
 

工事を見届けるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も、保之助の真剣なようすを見て、思わずえりを正しました。

 
足場が取り払われました。しかし、石橋は、びくともしません。やがて水門が開かれました。水は、勢い込んで長い石の水道を流れてきましたが、石橋はその水勢に耐え、相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。
 
望みどおりに、水がこちらの村へ流れ込んだのです。
「わあ」という喜びの声が上がりました。
 

保之助は、永い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができ上がったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして、水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。

 
まもなく、この村にも、水田の開ける時が来て、百町歩(ぶ)ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。
 
橋の名は通潤橋(つうじゅんきょう)と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

熊本地震で甚大な被害が出ている熊本県南阿蘇村と隣接する山都町(やまとちょう)は、大半の建物が全半壊し、住民のほぼ全員が避難生活を余儀なくされている地区もあります。

 
この町の宝であり国の重要文化財に指定されている石橋「通潤橋」が壊れてしまい、江戸時代から水不足の大地を潤してきた放水ができなくなってしまいました。
 

 

しかし多くの建物が倒壊する中、通潤橋はあの大地震でもそのまま残っているというのは、苦心に苦心を重ねた昔の日本人のしっかりした技術力の賜物ではないでしょうか。
 
通潤橋に水を通す日、保之助は万一失敗した時は、その場で腹をかき切る覚悟で礼服と短刀を懐にしていたことを思えば、平成の御代に起きた熊本の大地震にも壊れずに耐え抜いたことは、保之助が今を生きる我々に「修身」ならぬ、何かを教えているような気がするのです。

 

 

 

 

・・・・・・

人気ブログランキングに参加しています。

知れば知るほど先人の築き上げてきた日本に感動する、と思った方はここをポチッとお願いします。