鈴木牧之

北越雪譜(文政11-1828)が

秋山郷の最奥

秋山の難所を2里歩いて

藤つるにつかまり

2本の丸木橋を渡り

湯元(切明)まで訪ね

(中津川の河原を掘ると温泉が出る)

長屋を借りて猟をしていた

マタギに話を聞いた

鹿や熊の皮を剥ぎ

塩漬けにした肉や毛皮

岩魚は一回に数百匹担いで

草津温泉へ売りに行く

草津までの工程は13キロ

和名方面から

道の無い厳しい谷あいを通り

入山をぬけ草津へ

獣を扱うので蚊はいないが風がすごく

小屋外の川原で寝た朝

枕元辺に数十匹の狼が通った

足跡があり肝を冷やした

昭和28年

秋山郷大赤沢の秋田マタギ4世は

「苗場山、鳥甲山、志賀高原の発ぽ温泉
野反、赤湯(苗場下)まで出猟した

と言う

古くから湯治場として

栄えていた草津温泉へ

険しく道なき道を踏破し

獲物を売りに行っていたというマタギ

秋山郷~草津温泉までの

山の険しさはもちろん

地理的なことも

私にはハッキリは解りませんが

大学教授や

山好きな一般の方や

谷川岳エコツーリズム推進協議会など

多くの方々が

秋田マタギの活動や

活動範囲などを取り上げ

詳しく調べ論じており

それらをずいぶん読み

秋山郷から草津温泉までを

iPadの地図で追うと

秋山郷最奥の入山から先に道はなく

苗場山東側には

苗場プリンスホテルスキー場

志賀高原西側には

焼額山スキー場
万座プリンスホテルスキー場
草津国際スキー場

そのどちら側でもない

苗場山東側と志賀高原西側の厳しい谷間

魚野川に沿い

群馬県中之条町入山に入り

(今は入山から草津まで
国道が走っていますが)

私たちが草津温泉に向かう

道から見た山々が

秋山郷マタギが踏破した山なのでした

もちろん地図では緑色に塗られていて

山奥ということです

この辺りは

群馬県で

秋山郷マタギだけでなく

群馬県の猟師も猟を行っていたそうで

山奥のガラン沢入り口には

「惣吉地蔵」が建っており

惣吉さんは

群馬県の入山の猟師で

冬山のガラン沢に一人で猟に入り

カモシカを射止めた後

雪崩で遭難、腰骨を折り

動けないと分かって

愛用の村田銃を口に差し込み

足の指で引き金を引き自害したのでした

犬は雪の上に横たわる惣吉さんの周りを

数日間歩き回った痕跡があり

惣吉さんが新雪に埋まり見えなくなった頃

やせ衰えた姿で村へ戻り

救助隊が遺体を発見したそうです

惣吉さんの六合村入山は生活が厳しく

最近の

お年寄りへの聞き取りでも

「稗、粟などが自給できれば大威張り
稗、粟を食うだけ作れない家は木の実
何とか金を工面して麦などを買ってきた
自給できればそれ以上はなかった」

「畳はなかった。
板張りの上に稗や粟の茎を敷き
その上に筵だ
掛けるのは綿が高かったので
着古したボロなんかを入れた
小麦の袋に綿を詰めるなんていうのは最高
それが出来た人は少ないよ」

なんて話しで

惣吉さんは

子だくさんだったため

生活苦で旧正月も休まず

冬に一人でカモシカ猟に入ったようです

捜索時

付近に仕留めたカモシカは

なかったそうですが

2ヶ月ほどした後

信州の猟師から突然、連絡があり

手紙に現金が添えられ

「ガラン沢に入って猟をしていたら
足を縛られたカモシカを見つけた
この谷で冬の猟をしたのは
私らと惣吉さんだけだ
間違いなく惣吉さんの
射止めたカモシカなので
持ち帰り処分した
これはカモシカの代金と香典です」

と、書いてあったという

当時の金額でかなりのものだったという

ガラン沢は

山に詳しい方によると

群馬、長野、新潟を隔てる稜線の南側

西は白根山、突き上げるところは横手山

そして東に尾根は連なり
野反湖の北をさらに
白砂山へと延びていく

野反湖から北へ魚野川を下ると秋山郷

との場所で

この一帯の猟師には不文律

「掟」があったそうで

「4本の脚を縛られた
獲物には手を付けるな」

だそうです

撃ち取った獲物をその場に置き

さらに猟を続ける場合も多いため

このような掟ができたようで

信州の猟師は山に入った時に

既に惣吉さんの遭難を知ったようです

黙って持ち帰っても分からないものを

「掟」を守ったのでした

信州には

秋山郷に秋山マタギがおり

秋山郷は飢饉で村が全滅した村もある

惣吉さんの入山と同じく

非常に厳しい環境でした

それでも猟師らは

きちんと決まり事を守り

わざわざ

カモシカの代金と香典を

ご家族に送ったのでした

厳しい山村に暮らす人々は

互いに助け合い生きて来たのです

明治23年

草津大火の際

見舞いと後片付けに来た

群馬県中之条町入山の人々が揃って

カモシカの皮で作った上着を着ていたのに

草津温泉の人々が驚いたという話が

草津温泉誌に残っているそうです

木綿の服など買えなかったそうです

惣吉地蔵は

今は白樺などの雑木が生え

かつては

草刈り場だったことも

分からないようになった

山の奥の奥

となってしまった場所に立つそうで

昔はそこにワラビがたくさん生えて

女たちがワラビを採りに出掛けては

背負いきれないほど採り乾燥させたあと

草津温泉へ売りに行ったという話しですが

今は木が茂りワラビも生えなくなり

昔は

山村の人々にとって

身近な場所であったのが

時代が変わり

訪れる人もない山奥の奥と

なってしまったそうです

草津、志賀高原、横手山

見渡す限り延々と山

こんなところでどうやって暮らすの?

私が考える通り

山村の暮らしは

とても苦しい生活だったようです

入山も昔から猟が盛んで

鉄砲自慢が奉納射撃大会を

開いたりしていたそうですが

いまは猟師は減る一方で

カモシカ、イノシシは増える一方で

熊も多く

畑は荒らされ困っているそうです

六合村(入山も含む)の最後の猟師は

秋山郷からやってきた猟師の3代目

後に続く猟師はいないそうです




写真は

草津温泉

「山マタギと海番屋」

その昔、マタギが始めた店で

今はマタギから肉を買うこともできず

鶏肉や豚肉を使っている

とは知っていましたが

何か痕跡があるはず

と、訪ねてみました

噂の「マタギ焼き」は

やはり鶏肉と豚肉で

天然鮎はないとのことで

天然岩魚もないだろうと

「養殖ですよね?」と聞くと

うなずき

それでも岩魚の塩焼きを頼み

マタギといえば茸なので

茸が入っているという

「マタギ蕎麦」を

温泉街の

古~いお土産屋の店先に

泥つき山採り茸が並んでいたので

期待を込めてオーダー

いつ頃までマタギから

仕入れていたのか聞くと

「20年位前までは
楽に仕入れていました」

とのお返事でした

20年位前というと

下の娘も生まれていて

草津温泉に通い始めた頃です

もし

この店を無視せず入店していれば

マタギが猟った岩魚や肉が

美味しく食べられたかもしれません

まぁ

幼い娘を連れて入る店では

決してありませんから

もし

は、無いのですけどね

隣の

温泉饅頭屋さんには

毎年、寄っていたのですけどね‥