医療と介護の狭間で~いのちの流れを紡いで~ -2ページ目

●「立つ」というバランスーいまこの場所で-

先週は、自分の自由になる時間の中では、ただひたすらに、

「立つ」という事に向き合った1週間でした。


ヨガのBTCで出された課題が、ターダ・アーサナを1週間毎日実践し、

それをレポートにまとめるというものだったのです。


ターダ・アーサナとは、山のポーズとも言われ、

ただ真っ直ぐに立つだけの基本の立位の事です。


ただ「立つ」だけですから、本来は難しい事は何も無い筈なのですが、

実際にやってみると、それはそれでかなり奥深く、難しい・・。


例えて言うならクラブ活動で、「こんな練習に何の意味があるの?」

と思いながら、「やってみれば分かる」と先生に言われて渋々やり始め、


いつの間にや、かなりのめり込んで、終わってみれば、

確かに色々な事に気づかされたと言うところでしょうか・・。


私達は赤ちゃんの頃に、ハイハイから卒業した時から

立っていますから、今さら練習しなくても立てる訳ですが、


姿勢の悪さが、腰痛や肩こりを引き起こすというのも、

世間一般的によく言われるのも確かな事で、


私達は何時から下手になってしまったのでしょうね。


赤ちゃんの時には、きっと皆んな上手だったと思うのです。


誰に教わらなくとも、或る日、自分の力で立ち上がった訳ですし、

赤ちゃんの肩こり・腰痛なんて聞いた事がありませんし・・。


そういう意味では、神様の設計にミスはないのでしょうね。

重い頭があっても、ちゃんと人間は立って生活出来る様に創られている。

きっと大人になって、設計図を忘れてしまったか、

忘れては居なくても、設計どおりに使っていないと言う事なのでしょう。


1週間、解剖学の本も引っ張り出して、
ああでもない、こうでもないと、ただ「立つ」という事を練習してみて、


バランスって大事だなと、改めて思いました。


そして体のバランスだけではなく、

精神のバランスと言うか、生き方のバランスと言うか・・。

ただ「立つ」という事の中にも、人生があるようだとも思いました。


重心が爪先の方に掛かり過ぎても、かかとに行き過ぎても、

バランスが悪くてグラグラしますし、

骨盤が前に傾き過ぎても、後ろに傾き過ぎても、

やっぱり上手に「この場所」に立つ事が出来ません。


また、猫背になった姿勢は、過去に縛られた後ろ向きの姿で、

胸を張り過ぎた姿勢は、先を見過ぎて無理をしている姿勢の様でもあり、


「いま・ここ」にスッと立つのも、思った以上に難しいよなぁと・・。


頑張り過ぎるのも良くないし、かと言って、

頑張らなくてもいいんだと、それを言い訳に怠けても駄目。


「ちょうどいい」とは本当に難しいものです。


ヨガのポーズも人生も、変化していくもののバランスを取りながら、
先ずは「立つ」ことから始まるのだろうなぁ、などとも思いました。


出来ればどっしり立っていたいものですよね。

「いま」という時間に、自分の与えられた「ここ」の場所に・・。


うなだれるのでもなく、胸を張り過ぎるのでもなく、

いつも自然にニュートラルに。肩の力を抜いて・・。


本日もお読みいただき、感謝です。

●認知症病棟の現実-認知症によるBPSD-

テレビ朝日のスーパーJチャンネルで、

苦悩する家族“認知症病棟”の現実という特集がありました。


たまたまテレビを付けて、この番組が流れていたのですが、
その舞台が私の住む埼玉のとある病院で、

実は私の父も母も通院した事のある病院だっため、
つい個人的な想い入れも手伝い、見入ってしまいました。


BPSDというのは、認知症に伴う徘徊や妄想・暴言や暴力
などの行動障害で、物忘れや判断力の低下など、
認知症の人に共通する「中核症状」とは区別されているようです。


私の母も徘徊と妄想、また父は暴言と暴力があり、

お医者さんからハッキリそう言われた訳では無いのですが、

やはりBPSDだったのだろうと思います。


番組では、自宅での介護負担が増大し、手に余った家族が

苦悩しながら駆け込み寺の様に相談するという内容で、


毎晩の様に暴れる妻に何度も110番通報し、

警察にもサジを投げられて病院を訪れたご主人や、


病院内で、知らない者同志がお互いを夫婦だと思い込み、

出口を求めては徘徊する二人の姿などが映し出されていました。


世間一般的には、まだまだ認知症自体が、

ボケが少し激しくなったぐらいの認識しか無いように思います。


でもBPSDが始まったら、介護する方も、

普通に生活する事がかなり難しくなります。


介護の状況は、その家庭や人によってかなり違いますし、

私はあまりその事については書かなかったのですが・・。


こういう番組を観て、認知症が進むとやはりそうなのかと思い、

今後は増える一方なのだろうなぁと思うと、想いは複雑です。


番組では、看護士に傷つけられると被害妄想し、

看護士の手を掴んで暴れる70歳代の方もいらっしゃいましたが、

家庭内でも暴れて手を付けられず、ここに入院して来たのだとか・・。


もしも自分が母親が30歳の時の子供だとするならば、

40歳の働き盛りでBPSDの母親の介護をする可能性もある訳で、


私の様に仕事を続けられなくなったり、自分の家庭を壊したり、

同じ様に、かなり介護に苦しむ方も増えるのではないかと・・。


そう思うと、何だか切なくなりました。


ただ同時に、こういった現状を報道する番組が、
もっと普通に、少しでも増えて欲しいとも思います。


ちなみにこの病院では1ヶ月の入院費用が20万円なのだとか・・。


気軽に相談して欲しいと病院側は言っていましたが、

気軽にお願い出来る金額では無いことも確かな気がしました。


かと言って、暴れる認知症患者を、

どれだけの介護施設が引き受けてくれるのでしょう。


先の事を心配しても仕方がありませんし、

それぞれがその時に向き合って行くしかないのでしょうけれど、


美談や綺麗事だけでは終わらすことの出来ない

介護の現状のひとつの姿が、そこに在る様な気がしました。


本日もお読みいただき、感謝です。

●瞑想的生活と解剖生理学

生活の合間にヨガをしていると言う感覚から、

ヨガ的な暮らしの中に生活が存在している様な・・。


そんな微妙な意識の違いが少しずつ馴染んで、

仕事をし、叔父の面倒を看ながら暮らす、


日々の、そう大して変わらない生活の風景も、

何処となく違って見える様な気がしています。


誰でも想いを寄せる人が出来れば、

少なからずその人のことで頭が一杯になるように、


何か一点に集中する事が瞑想の基本だとするならば、

一心にヨガを追いかけている今の生活は、


その生活自体が充分、瞑想的なのかもしれません。


昨日はヨガBTCで、
解剖生理学の講義を受けて来ました。


私は整体師もしており、筋トレ・オタク的なところが在りましたので、

それなりの基礎的知識は勉強したつもりでしたが、


久しぶりにこうして専門家の方の講義を受けると、
改めて身体って凄いなと思ってしまいました。


循環器系、呼吸器系、消化器系、神経系、

内分泌系、免疫系、運動器系。


こんな複雑精妙にバランス制御されたシステムは、

人智を超えた力でしか到底、成し得ない・・。


村上和雄教授の言葉をお借りするなら、

それはまさに「サムシング・グレート」であり、

ヨガ哲学で言うところの「ブラフマン」であり、

「イーシュワラ」でしょうか・・。


講義が終わって、シルシャーサナ(ヘッドスタンド)では、

頭の何処で立つのが構造力学的に理想なのかと言う質問をしました。


頭頂を床に着けろと言われるけれども、
自分の感覚では、もう少し前の様な気がするし、
そもそも解剖学的には、頭頂とは何処なのかと・・。


詳しくは書きませんが、
その回答はとても納得するものでした。


解剖学が先に在りきではなく、

実践が先に在っての解剖学(科学的なお話)はまた面白い・・。


医療と介護の狭間で~いのちの流れを紡いで~-シルシャーサナ


野口体操の野口三千三さんの言葉に、

『重さは、神(大自然の原理)の実在として実感可能な姿である。』
という言葉があります。


「重さは力」であり、

重さはある意味、神の現れであると言うことなのでしょう。


目に見えないものは感じ取るしかない。

では果たしてどれだけそれを感じられるのか。


外に求めても、決してそれは得られないし、

それは自分自身で感じ取るしかない。


からだと言う「神」を想う。

重さと言う「神」に委ねる。


そんな事を考えると、アーサナ(ポーズ)の一つ一つにしても、

つくづく瞑想的だよなぁ~などと思ったりして・・。


外の世界を流れる景色の様に眺めながら、

それに捕われず、意識を内に向けて行く。


本を読み、食事をし、呼吸をすること、

仕事をすること、介護をすること・・。


少し油断をすれば、また直ぐに心は揺れ動いて、

明日の心配をしたり、日々の煩雑さに埋もれそうになりますが、


一度その心地よさを味わってしまうと、

心が平穏で居ることは何と幸せな事なのだろうと、


ひとり静かに過ごす時間を、ますます大切にしたいと、

最近そんな想いがいっそう強くなりました。


感覚を内に向けて・・。


本日もお読みいただき、感謝です。