生きる価値、死ぬ価値 | 敢えてブログで呟いてみる

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一時期北村一輝さんに浮気しつつも堂本光一さんに心酔する女のつぶやき

私は物心付いた頃から常に「死にたい」と思いながら生きています。

ストレスチェックとかで「死にたいと思うことがある」にチェックしたら「それは異常な思考なのですぐに病院に行きましょう」て言われるんだけど、私にとってそれはごく普通のことなのです。

(ちなみに病院には通っています)


今探しても何の作品だったのか思い出せないのですが、高校生の時の現代文で、以下のような作品を扱いました。


海に浮かぶ小舟の上、食料のない危機的状況で、誰かを殺してその肉を食べようという話になり、じゃあ誰を殺すのか、という話し合いが始まる。

みな「私が生きていたらこんないいことがありますよ」とアピールをする中、ある人が「私は生きている価値がないから死にます」と言う。

すると、「生きる価値がない人間には死ぬ価値もないからあなたを殺すわけにはいかない」と返される。


「生きる価値がない人間には死ぬ価値もない」


衝撃でした。絶望でした。

私、死ねないじゃん!!


それから私は、「死ぬ価値を認められるために生きる」という、謎の目的を持って生きることになりました。


死生観だとか、 メメント・モリだとか。

生に向かって生きる人間と、死に向かって生きる人間だとか。

深く考え出すと哲学の世界になってしまって頭が混乱してくるのですが。


私は子どもの頃から自殺に興味を持っていて、普通に家でもそんな話をしていました。

うちの母は少し変わっていて、娘が自殺の方法を考えているというのに、自分の好きなミステリー小説の知識を活かして、「首吊りは死んだ後に体の中のものが全部出てきて、汚いし恥ずかしいからやめといた方がいい」とか、「ガスは一見良さそうだけど、死んだ後に変色して気持ち悪いらしいからやめといた方がいい」とか、斜め上からのアドバイスをしてきました。

結局おすすめの自殺方法なんてあるわけないので、まあ、いまだに生きているわけですが。


でも、やっぱり私の根底にあるのは、「生きる価値がない人間には死ぬ価値もない」と言う思想です。


今、芸能人の自殺なんかでよく危惧されているのは「こんなにキラキラした人でさえ生きられない世の中なら私なんて終わってる」と思って後に続く人が出るかもしれない、ということ。


いや、違う。私に言わせてみれば、キラキラしているからこそ死ぬ価値が認められた選ばれし者なのです。


自分に死ぬ価値はあるのか?

考えると、私みたいな者に死ぬ価値なんてないと、畏れ多くなる。

不思議です。


批判があると思うので蛇足です。

「じゃあ今キラキラしていて生きる価値が認められている人なら死んでいいのか?」と問われると、先の現代文の素材のとおり、自分で自分のことを「生きる価値がある」と言えるような人間は、まず死のうとは思わないという前提があるのだ思います。

死ぬ価値を与えるのは自分ではなく他人なのです。

そして私個人としては、キラキラしている人に死なれると悲しいです。


ほんとね、しんどいね。

私はもう何年も頑張ってないし、抗不安薬がないと仕事もできないし。

でもしょうがない。私は死ぬ価値もない人間なんだから。

諦めてダラダラと余生を生きましょう。