第24番紫雲山中山寺 | をだまきの晴耕雨読

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ブログを始めて8年が過ぎました。
開始時の標題(自転車巡礼)と、内容が一致しなくなってきました。
生き方も標題もリフレッシュして、再開いたします。

御詠歌:野をも過ぎ 里をも行きて 中山の 寺へまいるは 後の世のため



 中山寺は「中山寺縁起」によると、「聖徳太子」が蘇我氏とおもに物部氏を討った際、四天王寺建立を誓い、その誓いを果たすための土地を探しているとき、太子に滅ぼされた「物部守屋」が悪鬼となって現れたが、太子は「菩薩様、私をお守り下さい」と祈ると悪鬼は退散した。


 その夜、太子の夢枕に「仲哀天皇」の妃、「大仲津姫」が立ち「乾の方向に紫雲の気が立つ峰があ。わが皇子の「忍熊王(おしくまおう)」と大柴に谷を訪ね、この峰に寺院を建立するならば、守屋の霊魂を取り除き、志を果たしてやろう」と告げた。お告げに従って太子が紫の雲がたなびく大柴谷の丘に登り、そびえる三山ののうち、中の山を伽藍建立の現場と決めた。太子は「紫雲山中山寺」と名付け、数多くの堂塔を立てたと伝えている。
 

 聖徳太子が中山寺を建立したことは、伝承だけで確かな証拠はない。ただ、中山寺の建立は、推古元年(593)の四天王寺建立に先立つこと4年と伝えられ、天平時代には、すでに大小の寺坊を備えた堂塔を完備していたことは「続日本紀」に「天平勝宝2年(750)、中山寺が雷火の災で堂塔尽く焼く」という生地からもあきらかという。
 

 安産祈願の霊場として皇室、「源頼朝」など武家、庶民より深く信仰を集めた。「豊臣秀吉」が祈願して「豊臣秀頼」を授かったとされる。また、幕末には中山一位局が「明治天皇」を出産する時に、安産祈願して無事出産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産の寺として知られる。中山という山が背後にあり、山麓にある中山寺奥之院には厄神明王がまつられ、本堂脇にある湧水は大悲水と呼ばれている。


 中山寺の境内からは18丁、徒歩50分程度で参拝する事ができる。毎月の戌の日は、安産祈祷会があり、安産を願い、また、鐘の緒(祷を受けた腹帯)の授与を求めて、日本各地から多くの参詣者が訪れる。日本最古の観音寺である。本尊は秘仏ではあるが、毎月18火には開扉され公開される。
 

 中山寺は平成7年1月17日の阪神大震災で、殆どの建物は大なり小なり被害を被ったが、その後復興に努め、平成9年10月10~12日には開創1400年記念及び阪神大震災復興大法会が営まれた。
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 「中山寺」へは阪急電車で梅田から30分で行け、22番総持寺と同じく街中にあり徒歩数分の距離である。「山門」は正保5年(1648)「徳川家光」により建立されたものであるが、この度「仁王像」と「狛犬」の修復を行ったところ、正保5年と書かれた木札がこの仁王像の胎内にも収められていたので山門と同時期に奉安されたことが判明したそうである。仁王像を囲んでいる柵には奉納された多数の「わらじ」がかけられている。ありがたいことに拝観料はなく自由に往来できる。
 
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          [山門]                                          [仁王像]       

 交通不便な昔、西国巡礼を志す人々にとって、仁王さまの躍動美は憧れと羨望の的でした。 古くから仁王さまに捧げられてきた数知れぬ「わらじ」には、自分の足腰が苦しい旅に、最後まで耐え抜くことが出来るようにとの熱い祈りが篭められています。また、巡礼の途中で「わらじ」を摺り減らしたとき、先の人が奉納した「わらじ」を借用したあと、次の礼所に新しい「わらじ」を納めてゆく慣わしがあったとも言います。この見事な助け合い分ち合いの心は佛教で最も大切にされる布施の精神に通じるものです(山門横のわらじ奉納についての説明板から)。
 
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        [吽像]                                              [阿像]

 お彼岸でもあり、大勢の参拝者がいる。「豊臣秀吉」は「秀頼」の安産のお寺として、この寺を大切にしたという。そのことにより「安産の中山観音」として有名にったが、この寺はそれだけではない。山門を潜ると左右に塔頭が並んでおり、最初の左側の「総持院」では、入口に「水子供養」「神学成就」祈願所とあった。中に入ると、「五大不動」「水子地蔵」「鬼子母神」「文殊菩薩」「福禄寿」と沢山の仏様が祭られてあった。
 

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         [総持院]

 その隣の「宝蔵院」には「大日如来」「弁財天」「延命地蔵」が祀られており、それぞれ得意な分野の祈願を受け付けている。驚いたことに、各塔頭を訪れる人が絶えないのである。
 
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          [宝蔵院]

 その向かいの「華蔵院」では大勢の人が祈祷を受けるために並んでいた。入口には「毘沙門天」「阿弥陀如来」「水子地蔵」が祀られており、「水子供養」「交通安全」「お宮まいり」の祈祷所とあり、どのために並んでいるのか?子供に関係のないようにみえることから「交通安全」の祈祷の様に思えた。しかし、その横の地蔵様は「入試合格祈願」「学業成就祈願」という幟をたてられていた。商魂たくましいというか、何にでも利用できるものは利用する。また、そのことにすがりつく人がいることも事実であることを見せつけられた。
 
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         [華蔵院]

 さらに反対側(宝蔵院の横になる)の「観音院」には「普賢菩薩」が祀られている。「夜泣き・疳虫」の祈祷所とあった。右側の写真は「華蔵院」の庭木であるが、あまりにも見事なので収録した。
 
 
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        [観音院]

 その向かい(華蔵院の横)に「成就院」がある。ここの門は漆喰で出来ており、他の塔頭と区別がついた。「大聖歓喜天」「虚空蔵菩薩」「布袋尊」が祀られており、「学業成就」「入試合格」「十三まいり」「除災招福」などの看板がかかげてあった。

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         [成就院]

 これで一応、参道の両側にならぶ塔頭の紹介を終える。「明治天皇御出産勅願所」の石碑がある。ことに幕末には、中山一位局が鐘の緒をうけ明治天皇を御平産されてより、明治天皇勅願所として霊徳を高め、「安産の寺」としても名高く、安産を祈る人々が全国から腹帯を授かりにくるという。右側には寺には珍しい「エレベーター」と「エスカレーター」の設備がある。よく見れば、圧倒的に妊婦や子供づれが多い。乳母車姿の若夫婦もいる。阪神大震災の被害を受けて後の設置というが、この事に関しては異論はない(お年寄りにも評判である)。

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                            [明治天皇御出産勅願所碑]

 階段を上がると立派な「鐘楼」があり、その前には西国七福神と書かれた「寿老神」と「勢至菩薩が祀られた「寿老神堂」ある。ここでは「寿老人」は「寿老神」と神になり、仏と同座している。
 
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          [鐘楼]                  [寿老神堂]

 その奥には「大黒天」と「千手観世音菩薩」をお祀りした「大黒堂」がある。この様に書くと、お堂ではなく、薬局を紹介しているような気持ちになってしまう。そして、その横には「詠歌堂」がある。この建物は説明の看板がなく、最後まで「詠歌堂」と判らなかった。地図で建物を確認してやっと判ったが、当日は臨時の集印所として開かれていた。
 
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          [大黒堂]                                        [詠歌堂]

 その横に「阿弥陀如来」をお祀りした「阿弥陀堂」があり、「納骨回向所」になっている。そのために用のないものは内陣に入ることが出来ないしくみになっている。しかし棟続きの「大願塔」の内部は無料で見学できた。慶長8年(1603)「豊臣秀頼」が「片桐且元」に命じて再建された。


 本堂の西側、阿弥陀堂の前には「安産手水鉢」が置かれている。「仲哀天皇」の妃「大仲津姫」が残した二人の皇子の内、「香坂(かごさか)王」は不慮の死をとげ、「忍熊(おくしま)王」は仲哀天皇の後の妃、「神功皇后」との戦いに敗れる。この「安産手水鉢」は忍熊王の遺体を納めた舟形石棺であるともいわれているが、伝説の域を出ないものと思われる。中世以降、本尊の十一面観世音菩薩を祈願し、この手水鉢で身を清めれば安産疑いなし、という言い伝えが生まれ、安産手水鉢と言われるようになったという。ただ、現在では水が溜められておらず、手水鉢の役割を果たしていない。

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                    [阿弥陀堂]                           [大願塔内部妙音殿]

 阿弥陀堂の横には地蔵を祀った「亥の子地蔵堂」がある。
お寺の説明板には、「地蔵菩薩」は天地を包蔵するという名前を持つ菩薩です。天空を象徴する「虚空蔵菩薩」に対して、天地を表す地蔵菩薩は、現世の人々はもとより、地下の冥界にあって苦しみの極まった地獄の中の人々も、救済する仏として、広く信仰されてきました。特に「釈迦」入滅の後、時代を担う仏とされる「弥勒菩薩」が出生するまで、無仏の時代に現れ、六道に輪廻して苦しむ衆生を救済し、延命をもたらすとされています。向かって左より「宝幢」「宝処」「宝手」「持地」「宝印手」「延命」「堅固」「除一切優冥」「不空見」「除蓋障」です。いずれも地蔵菩薩の徳を顕した名前です。中山寺の亥の子まいりとは、旧暦10月の亥の日に詣でて、ほうきにて地蔵尊を掃き清めて後に、自身を加持すれば、頭痛・肩こり・腰痛・中風・リュウマチ等に功徳があるといわれています。猪子地蔵尊の縁日は、毎年旧暦10月の亥の日です。

 その看板には()して「北向き地蔵」とあった。北向き地蔵は、一般的に、一願本尊としてのご利益があるとされ、願いごとをひとつ聞いてくれるとある。北を向いているのは下座をあらわしているという。
 
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        [亥の子地蔵堂]

 境内の最西端に「絵馬堂」がある。その右となりにある「観音茶屋」とともに、信者の憩いの場となっている。もともと本堂下の「紫雲閣納経所」の位置にあった江戸時代の建物を、開創1400年記念事業(2007年)の際に現在の位置に移設した。全国各地の信者から奉納された絵馬を奉安しているため「絵馬堂」と呼ばれる。天井の格子には、金剛界・胎蔵界の両界種字曼荼羅と御本尊「十一面観音」の真言をあらわす梵字が、種智院大学助教授「児玉義隆」先生の揮毫によって描かれている(案内看板より)。
 
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          [絵馬堂]

 ここより右に戻ると、いよいよ「本堂」がある。この「本堂」は「聖徳太子」が創建して以来、火災や戦火により堂宇はその度に焼失してきているようであるが、現在の本堂は、慶長10年(1605)に「豊臣秀頼」が父「豊臣秀吉」の冥福と自分の誕生の報恩のため、「片桐且元」を普請奉行として再建されたものであり、慶長10年(1607)に完成した桃山時代の代表的な仏堂建築であるという。中山寺は安産祈願の寺として有名であり、本堂左手前の隅に「安産祈祷受付」が設けられている。ここで祈祷済みの腹帯とお守りを買い求める妊婦が跡を絶たない。出産後は新しい腹帯を買い、これを寺に納め、お礼参りする。この寺の安産祈願は、「豊臣秀吉」がこの観音に祈って無事に秀頼を授かったことに始まるといわれている。
 

 「本堂」に祀られている本尊「木造十一面観世音菩薩立像」は女人済度を悲願としたインドの王妃、「シュリマーラー(勝鬘夫人)」が自らを彫った霊像といわれている。両脇侍二体は「後白河法皇」の寄進によるとされている十一面観世音菩薩であり、本尊と共に十一面観世音菩薩が三体並んでいる珍しい形式といわれている。本尊を含め上記3尊は秘仏になっているが、正月三ヶ日と毎月18日には開扉されているようである。本尊の「木造十一面観世音菩薩立像」は重要文化財に指定されており、また、「本堂」は兵庫県文化財に指定されている。 


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           [本堂]

 左と中の写真は「本堂」を右側から見たものである。華やかな彩色がなされており、400年前の再建の姿を伝えている。古式豊かな堂宇も、裏に回れば近代的なたたずまいをみせる。石庭の横が室外機の群列とは絵になる風景でもある。
 
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        [本堂外観]

 本堂の右側に「護摩堂」と呼ばれる建物がある。護摩堂の建築様式は、桃山時代の層堂様式を
遺しており、貴重な木造建築として指定文化財に登録されている。本尊は平安時代後期作の「不動明王坐像」で、脇侍として「矜羯羅(こんがら)」・「制多迦(せいたか)」の2童子を従えている。また、須弥壇の上には
「降三世」「軍茶利」「大威徳」「金剛夜叉」の4大明王を配し、中尊の不動明王とあわせて、「五大明王」の形式をとっている(説明看板より)。
 

 その右にある「開山堂」は「太子堂」とも呼ばれ、開祖「聖徳太子」は「用明天皇」の皇子で、積極的に仏像を受容して国家の思想的基盤とすることに努めた。法華・維摩・勝鬘の三経義疏を著し、「十七条憲法」に「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と説かれた。その聖徳太子が御年16歳、「仲哀天皇」の后「大仲津姫」および「忍熊王」の鎮魂供養のために、紫雲たなびくこの地を卜して、中山寺を創建された。現在の建物は、阪神大震災後、隣接する護摩堂をを参考にして新築されたもの。
 
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          [護摩堂]                                         [開山堂]

 本堂と護摩堂の間の石段を登ると「大師堂」がある。この堂には、真言宗宗祖の「弘法大師」が祀られている。堂内には西国33所の観音霊場の御土砂を安置し、御砂踏みの行場となっている。笈摺を身につけ、一踏み三礼しながら、お参りすれば、その功徳は西国33所観音巡礼に等しいと伝えられている。毎月21火には月例の御影供法要、6月15日には宗祖の御誕生を祝う降誕会・青葉まつり法要が執りおこなわれている(説明看板より)。その横には、朱色の色鮮やかな社がある。「厄除大明神」とあり、旧来の社がその中にあった。


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  [大師堂]                 [厄除大明神] 

 同様に、高台には以下のようなものがあったが、詳細は不明である。
 
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 さらに左に行くと、「子授け地蔵」というものが建っている。中山寺には安産祈願の参詣者が多いが、ひっそりと建っている小さな目立たない堂であっても、それなりの霊験を期待してか、この子授け地蔵にお詣りする人も多く見られる。


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        [子授け地蔵]

 さらに左に進み、下っていくと「鎮守社」がある。「恵比寿」をお祀りしているという。さすがにここには訪れるひとも少ない。その下には朱色も鮮やかな「大願塔」がある。この建物は、かつて中山寺に存在していたとされる大塔(5間ある多宝塔)を再建したものである。


 聖徳太子によって建立された中山寺は、伝統的な堂塔伽藍によって配置されており、中山寺に保存されている参詣曼茶羅には、現存しないものが幾つか見られ、その中の1つは大願塔が画かれていた。この大願塔を再現するにあたり、周囲伽藍と違和感の無い計画とした。大塔の主体は鉄骨構造だが、造作部分は伝統的手法を取り入れたハイブリッドな工法により建立された。地階に位牌室、地上階には70人余を収容する事が可能な祈祷室を設け、安産祈願の中山寺の象徴として優美な姿を現している。地階は大部分が既存の石垣内に埋め込まれると共に、外壁は中山寺を再建した豊臣秀頼に因み、太閤塀をコンクリート打放しで表現し、環境との調和を図っている。
 

 最初は正面から撮ろうとしたが、逆光になりなかなかフレームに入らなかった。下からあおり、太陽を避けて撮ったのが中の写真である。どうしても全景が撮りたくて、1時間後裏側からではあるが納めたのが右側の写真である。他の寺の多宝塔のような優美な姿である。
 
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          [鎮守社]                                    [大願塔]

 拝観順路が逆になってしまったが、大願塔の下にある「閻魔堂」を訪ねた。ご本尊は「司命・司録」の両脇侍を従えている。密教における12天である閻魔天が、中国道教の冥界思想の影響により、変化したのが「閻魔大王」である。我が国では浄土教の広がりとともに地獄・極楽のイメージが民衆に定着した。閻魔大王は、冥土の裁判官、あるいは地獄界・餓鬼界の王ともいわれ、民衆の間で、身近な仏教の仏として、十王信仰や地蔵信仰などにも結びついた。中山寺では毎年2月16日と8月16日が閻魔天の縁日とされ、続に「地獄の釜が開く日」といわれて、大根だき法会と施餓鬼法要が執り行われる。写真の右は「宝蔵」である。
 
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        [閻魔堂]                                          [宝蔵]      

 本堂前の石段下、「大黒堂」の横に「石の櫃」と呼ばれる中山寺古墳がある。この古墳は「仲哀天皇」の妃、「大仲津姫」の墓という言い伝えがあるというが、古墳が建造されたのは6世紀後半とされているから、大仲津姫の墓とするには時代が合わない。一方、この地方に勢力を誇っていた豪族の墓とする説もあり、こちらの説の方が真実味がある。この古墳は横穴式石室で、羨道の奥の玄室には石棺が安置されている。石棺はくり抜き式家形で、その大きさは幅約1m、長さ約1.8m、高さ約1.2mとされている。長谷寺を開き「法起院」に隠棲した「徳道上人」が仮死状態になったとき、冥土の閻魔大王から授かったという宝印を中山寺に埋めたという伝説があるが、それによれば、その宝印を埋めたのがこの石棺の中といわれ、約270年後に「花山法皇」によって掘り出されるまで、この石棺の中で眠り続けたとされている。花山法皇はこの宝印に基づき、西国三十三ヶ所を再興したとされているが、宝印がこの寺に埋められていたということから、かつて、この中山寺が西国霊場の第一番札所だったこともあるという。
 
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                                                          [石の櫃」

 「五百羅漢堂」は最初の階段を登った右側にある。「親兄弟の 顔が見たくば 中山寺の 五百羅漢の 堂にござる」の古歌に詠まれる中山寺の五百羅漢堂は、開創1400年(2007)記念事業の1つとして新築された。堂内には「釈迦如来」を本尊として、そのお弟子である羅漢さんを700有余体もお祀りしてあり、如来の説法を聴聞する姿を再現している。天井には金剛界五仏と釈迦如来の種字曼荼羅が描かれ、床には蓮華の陶板が敷かれているが、これは人間の心が本来清浄であることを示し、一度、曼荼羅に坐し、至心に仏を念ずれば、必ず悟りが開ける(説明看板より)。
 
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        [羅漢堂]

 先にも触れたが、震災を期に写真のような「エスカレーター」と「エレベーター」がついた。お寺の参拝は修験者から始まったかも知れないが、今は老若男女の集うところである。激しい運動が難しい妊婦や、ベビーカーを持参する幼い子供連れの夫婦もあるだろう。そして長く急な階段を苦手とするお年寄りもいるだろう。難しいことはやめて、だれもが参加できる寺の運営を心がけている点は素直に評価できる。
 

 食堂の案内にあった「蓮ごはん」を食べてみたかったが、境内ということでアルコール類をおいていなかったので又の機会にした。参道では様々なお店がでていた(このように境内にお店がんでいるのは、四国の石手寺以外にしらない)。「名物かたやきせんべい」と書いてあったので、1袋購入した。7個入りで500円と結構高かった。
 
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                                                        [かたやき]

 ここも来たときと反対の視線の写真を1枚撮った。本堂に至る道はずいぶんな高低差があることが判る。上のエスカレーターは、下る石段の左側に設置されている。入門の時に気づかなかった「狛犬」も修復を終えて往時の輝きを取り戻していた。経年変化したものばかり見ているせいか、このような真新しいものをみると、なにかなじめないのは偏見であろうか?
 
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 そういえば、気ばかり焦っていて門前にあった「受付所」というものを満足に見ていなかった。他の寺ではここで拝観手続きをするのだろうが、各種「祈祷」の受付兼案内所になっている。
 

 門の正面には沢山の石碑が並んでいたが、おおかたは個人の顕彰碑であった。昔も今も、顕示欲というものは変わらないらしい。もっと嫌らしいのは、他人の功績や団体の功績の顕彰碑に世話人として自分の名前を刻む人達である。先祖のお墓を作成して、建立者○○と刻むのに似て、やるせない気持ちになる。
 

 そんな中で1つだけ異なる石碑があった。次の札所への道しるべであるが(継ぎは番外の「花山院」)、道中4里半とある。今の距離にして22km、天気がよいのでこれから歩こうかという距離ではない。門前で遅い昼食をとることにした。


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