あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。(使徒言行録17章23節)
 
 タイトルを見て「スケベ祭り」に見えたあなたは、相当疲れていますね。残念ながら「ケベス祭り」です。なんでもこれ、大分県国東市で毎年10月に行われる火をまき散らす祭りらしいのですが、その起源も由来も不明だそう。誰も知らない。それなのにやっている。もうそれだけで最高。そう、意味なんか考えちゃいけないのかもしれない。そういうことって、私たちの身近にもたくさんある。わけもわからずに、とりあえずやっていることが。


 2000年前、アテネは大都市だった。たくさんの人がいた。そしてたくさんの文化が混ざり合っていた。そんな中、わけのわからん風習というか、習慣みたいなのも、たくさんあったのだと思う。実際、伝道者パウロが道を歩いている途中、『知られざる神に』と刻まれた祭壇を見つけることに。なんか、ようわからんけど、とりあえず神様らしきものに向かって拝む。そういう習慣があったようだ。


 全部が全部、白黒はっきりさせれば良いというものではない。世の中のほとんどのものはグレーだ。その中を私たちは生きている。そうやって含みを持たせておいた方が、何かと融通が利くし、都合がいい。しかし、はっきりさせなくてはならない事柄というものも、あるのではないだろうか。その最たるものが、自分の命の問題であろう。それはつまり自分の命を造った神様の問題でもある。神様が一体どういう御方か。何をお考えになっているのか。そこを曖昧にすることは、自分の命を曖昧にすることだ。


 パウロは言う。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」。一見「なに上からモノ言ってんねん」と思う。でも違う。パウロは感動していたのだ。アテネの人たちの信仰心に。わけもわからんのに、信じているんだから。これ考えてみれば、結構すごいことだ。わけもわからんのに、理由もないのに、信じ続ける。何かをやり続ける。並大抵のことじゃない。そう考えると、私たちも相当な土壌がある、と言える。


 「信仰」という言葉を使うと、一気に毛嫌いしてしまう私たち。でも案外、皆信仰者だ。「神様なんかいない!」と言う人だって、ほら「神様いない」ということを信じている。聖書は言う「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)。神様の姿に似せて造られた人間。そう本来、人は神様に頼って生きるように造られているのだ。ただ忘れていたり、気づかないふりをしたり、強がっていたりしているだけで。


 アテネの人たちは、パウロが話を進めようとすると、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ってはぐらかした。グレーのままにして立ち去った。大きな宿題を残したままに。いつかは、はっきりさせないといけない命の問題。取り組むなら早い方がいいい。夏休みの宿題を、8月31日に泣きながらやるのは、僕はもうごめんだ。