び~えむの日記

び~えむの日記

徒然なる日々思う事を書き留める日記

 

 

 

 

 

振り返ってみると、無理して家を買わなかったら母親はまだ生きて

いたのではないかと思う自分がいます。

 

もし、家を買っていなければ無理なローン地獄も無く母親もマルチに

引っかかって無かったのではないか。

母親は、癌の告知を受けた後も、なんだかんだ言っても健康食品で

治るんじゃないかと思っているようでした。

その為に、抜本的治療の初動が疎かになってしまいました。

 

もし家が無かったら母はそもそも癌になって無かったかもしれません。

原発の事故が原因で放射能からの癌患者の急増という事には根拠

が薄いと言われていますが、私の親戚家族の中であの原発事故後

すぐに祖父、伯父、そして母親の三人が癌で亡くなっています。

原因とは言わずとも一因くらいにはなってたのかもしれないと思って

しまう自分がいます。

持ち家ではなく一緒に避難してたら、もしかしたら癌から逃れていたの

かもしれないと。(だからと言って原発の是非は特に言及するつもりもありません)

 

でも、逆に家があったから母親は自分の人生に濃い色が付いたのかも

しれないなとも思います。

私の主観ではあの時に家を買った事が人生に無理なレバレッジが掛り

結果自分達を苦しめたと思っていますが、母親から見たら苦労はした

ものの自分の頑張った結果だと満足感を持って生きていたのかもしれ

ません。

人生に起こる様々な岐路は、結局は自分の中の解釈次第なのかなと。

 

私は母親の死の後、しばらくの間は燃え尽き症候群のような感じの

毎日を過ごしていました。

家には私一人だけ。独りで住むには大きすぎる家。

毎月家に入れていたお金はもう入れなくてもよくなり、母親にかかる

医療費も無くなりました。

ふと気づけば自分の生活費を考えてみても、今後の生活にそれほど

お金はからない事に気づきます。

 

今まで家のお金の事と母親の病気の事ばかり考えて生きてきたのに

いきなりその両方が消えてなくなり、何かに追われる事もなくなったの

で、自分の生きる意味というか生きるモチベーションが無くなってしま

いました。

結構記憶力には自信があるのですが、母親が亡くなってからしばらく

の間の記憶は思い出せないところをみると、おそらく人生に起こり得る

大きなイベントを激動の早さで消化し終え、その疲れというか虚無感で

ボ~っと毎日を過ごしていたのだと思います。

 

そんなちょっと気の抜けた廃人のようになっていて、このままではいけ

ないという思いから自分探しの旅というと笑われそうですが、そんな

意味合いのぶらり旅へでかけることとなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、母親の闘病生活が始まるわけですが、私は母親に何が出来る

だろうという自問自答の毎日を過ごす事になります。

母親は仕事を辞めるも、今まで何かしらをやっていた人が急に何もす

る事が無くなったわけで、何をしてよいやら分からない様子でした。

最初のうちはまだ身体も動くので自分で車を運転して友人と旅行に行

ったり何かの習い事に行ったりとしていましたが、段々とそういう気力

も無くなり家に引きこもりがちになります。

私は、BARも閉店する事にして、なるべく自分がそばに居て何かして

欲しい事のサポートをしていました。

今にして思えば、株やパチ稼働という時間に自由が利く事を生業にし

ていた事がこのような形で活きてくれて、私にとっても自己肯定が出来

て良かったのかもしれません。

 

母親は、元々モノを捨てられない性格の人で、ただでさえモノが多い家

の中が益々ゴミ屋敷化していきます。

引きこもりがちの頃になると、いつしか何かモノを作って残そうと、知り合

いから着物の生地を沢山貰ってきて、バックや財布等を作り始めました。

ますます家の中が散らかりましたが、もう自分の気の済むまでやらせて

あげようと見守る事にしました。

 

母親の唯一の特技が料理で、とにかく原価には全く気も留めないで味

のみを追及するスタイルでしたが、それも本人のやりたいように任せて

いました。私は母のやり甲斐の為になればと夕飯は必ず作って貰うよ

うにしていました。

どんなに身体がしんどくても自分の役割だと感じていたのか、無理して

でも必ず毎日夕飯は作ろうとしてくれていました。

母親の料理はいつも美味しいのですが、段々と味が整わなくなって行く

のが分かります。ある時から母がしきりに美味しいかどうかを聞いてくる

ようになります。

ちゃんと美味しいよ。と素直に答えても、本当に美味しい?と毎回のよう

に聞いてきます。

 

ある日、母親が寂しそうに、

「ごめんよ、もう夕飯作ってあげられないよ。もう味が全く分からないんよ」

 

と私に伝えてきました。おそらく徐々に衰えていく味覚に対して経験則で味

を調えてたのだと思います。私はなんて答えて良いか分かりませんでした。

 

やりがいを失ったからか、その後すぐに容態を悪くし入院してしまいます。

病院には居たくない。家に帰りたい。と口癖のように言っていました。

最期の方に、先生から家に帰る許可が下りて、食事制限も無くなり好きな

食べ物モノを食べても良いと言われました。今思えば本当に最期の段階

だからこその許可なのですが当時は私は気が付けず、何度も入退院を

繰り返した内のまたその時の一回が来た。くらいの感覚でした。

癌は徐々に身体を蝕むのでその過程ではいつも通りに感じてしまうのです。

 

入退院を繰り返す間隔が徐々に短くなっていく中、母が帰宅時に容態が悪

くなり急遽病院へ搬送。

入院してから親戚もお見舞いに来て貰えたりして、談笑する程度には回復

していて、また明日来るよ。と言葉を交わし一旦家に帰ったその日の夜に

容態が急変し、病院から呼び出しを受けます。

 

「出来るだけ急いできてください!」

 

電話口での看護師さんの言葉でただ事では無い事が分かります。

病院に着くとさっきまで話が出来ていた母は、呼吸器をつけてベッドに寝か

されていました。手を握って呼びかけてあげてください。と看護師さんから

傍へ促されドラマで観たような心電図の示す値がが徐々に衰えていき、呼吸

も弱くなっていきます。母親はすでに意識は無く、眠っているような表情で

その時が来るのを待っているかのようでした。

最期に息が途絶え、私は少しの間目の前が真っ白しなり、そして頭の中で

ようやく母が亡くなった事を理解すると涙が溢れてきました。

 

 

 

先生が部屋に入ってきて最期のご臨終の確認をされ、呼吸器が外されます。

病院から、亡くなった今の時点からお通夜&葬式の準備に入る事を告げられ

私は急な事だったので軽いパニック状態になります。

ご臨終から30分ほど遅れて親戚が来てくれたのですが、助けてくれる

どころか逆に早く今後の予定を決めてくれないと困る!と私に葬式の手続きを

急かしつけます。母の家族は実質私しか居ないので、全部自分で決めるしか

ないという状況。看護師さんに母親に着せる最期の服を家に取りに行くように

促され一旦帰宅しPCでひたすら検索をして、どうにか任せられる葬式業者さん

を見つけます。

とりあえず一旦はホッとするのですが、家の中の散乱具合を見て青くなります。

これからお通夜をするというのに、とても人を上げられる状況でない程の荒れ

模様で、急遽親戚を巻き込んでの大掃除&お通夜の支度となりました。

 

無事、お通夜&お葬式を終えてようやく一服かと思えばそんな事は無く、

母親に関する様々な手続きに入ります。死亡届の提出や銀行口座の解約等

一つ一つ地道にやりました。※死亡後手続き

家の中の掃除も含め、なんだかんだで49日法要くらいまではバタバタと忙し

かったように思います。

法要とか手続きとか何でこんなにめんどくさい事を遺族にさせるんだよ!

と当時は憤った気持ちを持ったりもしましたが、悲しみを忙しさで忘れさせる為

にこういう制度が昔から残っているのかもしれない。良く出来た制度なのかも。

なんて思い、自分の中で妙に納得させられたりもしました。

 

忙しすぎて母親の死をゆっくりと実感する暇のない日々を過ごし、ようやく

落ち着いた日常に戻る頃、ふと自分の心の中がぽっかりと穴の開いたような

状態になっている事に気がつくのでした。

 

 

 

 

 

それはある日突然やってきました。

昼間の仕事に出ている筈の母親が、急に仕事を早退して帰宅。

お腹の様子が変だからと急遽病院へレントゲンを取りに行くよう

職場の人に勧められます。

病院へ行くと、どうもお腹に水が溜まっているので抜かないといけ

ない。その水を検査してみて何の病気が分かるとの事でした。

母親はこの時点では全く自分の身の心配をしておらず、何の病気

か知らないけど早く治して仕事戻らなくちゃ!くらいに思ってました。

私は、水が溜まるという事がどういう事かをネットで調べます。

いくつか候補に上がる病状がありましたが、その中の一つはとても

想像したくはない病気でした。

 

母親が病院へ結果を聞きに行く際に、家族を同伴と言われていて、

私も一緒に病状を聞きに行く事になりました。

部屋に入るなり先生に、

 

「これから話す事は、病気の事ではありますが、聞きたくなければ

聞かないという選択肢もございます。お二人はどうなさいますか?」

 

母親は、何言ってんの?そんなの聞くに決まってるじゃない。と全く

意に返さない素振り。しかし私はその言葉で嫌な予感は当たっている

んだなと悟ります。

 

私は先生に、

「私が知っていないと今後の対応もありますから教えてください。」

 

先生

「分かりました。お二人とも聞きたいという事なのでお話します。

お母様の病名は肺がんです。腹水からがん細胞が見つかりました

のでステージは3後期から4です」

 

母親は、何言ってんの?そんなわけないじゃない!と全く信じません。

なぜならば、マルチで扱っている健康食品やプロポリスをしっかり取って

いれば癌になんてならないし、なっても治ると思っているのです。

先生には、検査結果に不服不満等あるようでしたらと、他の病院にて

セカンドオピニオンを薦められました。

この病院は市の普通の病院でしたので、専門家に観てもらおうと県内に

ある癌センターにて更に詳しく検査して貰いました。が結果は同じです。

 

今後、やるべき治療の方向性は三通りあり、放射線や抗がん剤でなるべく

延命する治療。保険適用外の治療。そして延命はせずに残りの時間を

幸せに穏やかに過ごす治療。

具体的な治療方法を淡々と話す先生を前に、ようやく自分の状況を察した

のか、母親はその場で泣き崩れました。

私にも先生の説明は淡々とし過ぎていて正直冷たいなと感じました。

でも、きっと先生も何度も何度も同じシチュエーションを経験し、敢えて

感情を出さずに説明しているんだろうと思いました。

そして変に希望を与える事になってもいけないんだろなと。

 

説明を聞いた病院の帰りに、近くにあった昔から評判の鰻屋さんにて

母と二人で一緒に少し泣きながら特上うな重を食べました。

あの時の味と情景は今でも忘れる事はできません。