ホンダジェットで人生3度目の感謝 ~ 2003年再び飛ぶ事を決意して ~
桜が咲いているノースキャロライナにあるホンダジェット本社の前に立ち20年前の2003年を思い出していた。
朝日新聞社を退職して3年が経つ頃、2003年になり、ようやく設立した会社も小さいが軌道に乗ってきた。
会社の関係者や取引先は僕がパイロットであった事、教官資格がある事など誰も知らない。
9月のある日、ガルフストリームG550という東京からニューヨークへノンストップというジェット機のニュースを見た。
その数日後に、北九州で最年少最短時間で操縦教育証明に挑戦させた元上司から電話が入った。
元上司は僕の会社に来て、「もう一度、飛行機に乗らないか?日本一のパイロット訓練所を作る」
僕は事業をしながら土日に嘱託として本田航空の多発計器飛行過程を立ち上げる教官を引き受けた。
数か月後の衝撃のホンダジェットのニュースを見て感動した。
2015年4月28日にホンダジェットの試乗会に招待され藤野社長と成田から一緒に飛ばせて頂き感動した。
記念の盾は会社に今も飾ってある。開発物語を読んで大勢の方たちが情熱を注いだのに感銘した。
エントランスの奥にはこれまでの壮大な挑戦の軌跡が飾ってある
その奥に最新型のエリート2がある。これがレジェンドからエリートそしてエリートSと改良を重ねた完成版。
人生3度目の感謝の電話が鳴った「アメリカのホンダジェットシングルパイロットの資格を取得してほしい」
僕はアメリカの定期運送用操縦士資格でホンダジェットを1人で操縦できる資格に挑戦する。
そして1人操縦では最高峰のサイテーションCJ4やピラタスPC24に対するHONDAの挑戦が発表された。
あれから20年後、東京とニューヨークを繋ぐのはガルフストリームだけではなかった。
1999年うさぎ年の飛行機が日本で初めて飛んだ日に現在のブルージェットを設立した。
12年後の2011年うさぎ年に水産航空の代表取締役に就任した。
1年前にアメリカでの携帯電話を作った時、最初の323という数字だけがどうしても希望に合わなかった。
顔が近すぎてわからない美女にキスされて目が覚め、試験当日3月23日それは運命の数字だと気づいた。
試験官は僕のログブックをくまなく見て「ミッチェル、ノースアメリカン、ステアマン、・・ヒントンと飛んだんのか?」
試験官のジェフは古い飛行機が好きで、世界で1機の本物の零戦のレストアに携わっていた。
笑顔から急に鋭い目つきに変わり、厳しい話の後に、3時間の口述試験と3時間の実技試験が始まる。
手動操縦には特に気合が入った。古い飛行機を学ぶ事は基本を学びなおす事だからそれを見るとわかった。
「頑張らなくていいから、結果出してね」
30年前に初めて会ったときから言う元上司の顔が頭に浮かび、顔を潰す事は出来ないと思った。
今回の訓練コースで1人操縦資格の合格は僕一人だけであった。
日本時間は早朝4時過ぎ携帯から「合格しました」とメールをした。
僕の知らせを待っていたのかのようにすぐに喜びの返信があった。
彼の存在なしには僕は今ここにいない。
ホンダジェットは彼の下でしか飛ばないと最初から決めていた。
25年前、当時日本一の民間パイロット訓練会社の倒産を2人で経験した。
北九州小倉で酔いつぶれた彼を担いで最後送った時、泥酔いの中で僕の耳元で大きな声で言う
「俺は絶対に、もう一度日本一のパイロット訓練会社をt繰り上げる」
僕の航空会社で訓練を事業としてやらなかった最大の理由である。勝てるはずがないとあの時感じたからだ。
30年前から、関係性や形は変わったが、強引に簡単に高いレベルを要求する事だけは僕に対して変わらず。
人生3度目の感謝を抱き,サポートしたい。
bluejet
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