京都の立命館大学に隣接して臨済宗天龍寺派の禅刹等持院がある。周知の通り、同寺は室町幕府の足利将軍家の菩提寺であり、初代将軍足利尊氏の手で建立されたものである。
同寺に霊光殿という一堂があり、歴代足利将軍の木像と徳川家康の木像が安置されているが、当堂の本尊として足利尊氏が念持仏としてその生涯において信仰してきた地蔵菩薩が安置されている。
伝承によると、足利尊氏はその母が地蔵菩薩に祈願した末に生まれたと言い、足利尊氏自身も熱心な地蔵菩薩信者で日々地蔵菩薩の画像を描いていたとされ、現に尊氏自筆の地蔵菩薩も残っている所である。
ところで、霊光殿に安置されている地蔵菩薩は利運地蔵とも称され、その通称名から開運の利益を齎すとされてきた様だが、しかしながら、私自身がこの地蔵菩薩に着目したのは、かかる利益ではなく、やはり、その像容である。
一目で明らかなことではあるが、その像容は全体的に幼児の様な愛らしさを帯びており、無仏の時代の救済者という大看板を微塵にも感じさせない。しかしながら、この事はこの地蔵菩薩が頼りなげという事を意味するのではなく、この地蔵菩薩を見る心ある人をして自ずから慈愛の心を引き出すとともに、喩えようの無い安らぎを齎してくれる。或いは人をして無垢なる赤心へと回帰せしめてくれると言った所であろうか。
かかる地蔵菩薩を身近に置き、日夜信仰していた足利尊氏の日本史上における事績に関しては此処で詳細に触れるつもりはないし、それらについて浅学愚見を晒すよりかは他に譲ることにする。無論、短絡的に逆賊と見るつもりも無いし、又、周代の武王の様に見るつもりもない。鎌倉時代末期以降の極めて不安定な時代情勢の中、源氏の血統に連なる足利一門の棟梁としては少なくても一門を守る為には権謀術数の数々は必要であったであろうし、又、両統迭立という前代未聞の皇室の分裂という状況下においては熟慮の末に様々な押し技引き技も要求されたであろう。更には一人の武将として足利尊氏個人に征夷大将軍という武家羨望の職に対して個人的野心が全く無かったとは言えまい。
しかしながら、戦乱の時代を潜り抜けてきた尊氏が、本来ならば、戦勝祈願の信仰対象としてならば、他にもっと適当な仏尊がある筈であるが、しかしながら、敢えて地蔵菩薩、しかも上述の様に幼児の様な愛らしさを存分に湛えたこの地蔵菩薩を身近に信仰していた所に足利尊氏の人間性の一端を伺うことができる様に思われる。