春日赤童子 | 徒然草子

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藤原氏の氏神を祀る春日大社の神々は八幡神に次いで仏教との親和性が高く、古来よりかかる春日信仰に因んだ様々な垂迹美術が作成されてきた。
春日赤童子もかかる春日大社の垂迹信仰の賜物であり、今日に残る遺品類の研究から南北朝時代頃から大和地方を中心に信仰されてきたと言う。
春日赤童子の図像は身色赤色の一面二臂の忿怒相の童子形で、磐の上に立ち、髪は総髪で右手で棒杖を持し、左手で顎を支えているが、全体的にその図像は日本密教の不動二童子の内、制吒迦童子を彷彿とさせる。
ところで、春日赤童子の出自についてはよく分からないという所が実情であり、当尊については以下の諸説がある。
①春日明神の内の天児屋根命に当たるとする説
②春日大社の神体山である御蓋山の雷神とする説
③春日大社の若宮とする説
④春日大社の地主神とする説
⑤春日明神が興福寺の宗派である法相宗を守護すべく化現したとする説
この様に諸説が並立している要因として春日大社に春日赤童子に関する伝承が殆ど残っていない(或いは存在しなかった)点にも大きな要因がある様で、春日大社における同尊の僅かな痕跡と言えば、大社の南門(楼門)近くにある結界された小さな自然石で、此処で春日赤童子が出現したと言われている。とは言え、当該神石に関する伝承はこれに留まらず、大社側はこの他に太古の磐座の名残とする説や神意によって落下した額を埋めて石で封印した場所とする説も挙げているから、当該神石を以って春日赤童子の痕跡とするには、どうもおぼつかない様である。
一方、興福寺系の資料(寺誌類)では⑤の説が明確に紹介されているから、現存する資料面からすると、⑤の説の方が確証が得られやすいと思われ、又、春日赤童子の有名な遺品である植槻八幡神社蔵の1488年制作の当童子の画像に「昼夜各三変 擁護修学侶 龍華三会中 常見仏聞法」という弥勒菩薩に因む賛が附せられていることから、元来、春日赤童子には法相宗の教法や僧を守護する役割が期待されていたことが容易に想像し得る所である。
かかる春日赤童子信仰に関して、佐和隆見は金剛童子信仰からの移入であろうと指摘しており、又、奈良国立博物館の谷口耕生氏は更に具体的に天台宗における護法童子信仰を法相宗の興福寺が移入したものではないかと指摘している。
以上からすると、春日赤童子の性格は護法童子の法相宗版と言うことができる様に思われるが、しかしながら、春日赤童子に関して、上述の通り、南北朝時代以降、大和地方を中心にその信仰が広まり、加えて春日講の本尊としてしばしば祀られる様になった。
本来、特定宗派の守護神であった春日赤童子がどの様な経路を経て法相宗の枠を超え、広く民間に浸透していったかについては興味深い問題ではあるが、私自身もそれについてはよくは分からない。しかしながら、民間レベルにおける春日赤童子信仰の普及に際して上述の①~④の説が生まれ、これらの諸説と普及とが互いに因となり果となって影響し合ったのではないかと想像している。