「花燃ゆ」予習編21
◎芝山巌学堂事件―楫取道明、台湾に死す
「楫取道明は、ほか五人と共に台湾の芝山巌という所の小学校に派遣されます」
「しざんがん・・・ですか」
「はい。学校のことを学堂ともいいまして、現地の芝山巌学堂に勤務します。ここで、事件が起きるのです」
「何が起きたのでしょうかー(ドキドキ)」
「道明は、明治二十八年六月に台湾に渡ったのですが、半年後の翌明治二十九年一月一日ですよ」
「おめでたい日ではないですか」
「大惨事が起こりまして」
「はあ・・・(ドキドキ)」
「当時の台湾は、日本に併合された(日清戦争後の下関条約による)ばかりで、日本に対する反感が強く、危険だという感じがあったわけですよ」
「なるほど・・・」
「日本側の史料では、匪賊(ひぞく)という難しい漢字を使っていますが、要するに抗日ゲリラですわ。そういう連中が跋扈していたわけです」
「うんうん」
「しかし、道明たち六人は台湾に残ったわけです」
「なぜですか?」
「いや、まあ。それが教育者の使命だとか、そういう感じで・・・」
「長州人らしいですね」
「いや、六人の先生のうち、長州人は道明とほか一人(井原順之助)です。ほか(関口弥太郎・中島長吉・桂金太郎・平井数馬)は違いますよ」
「あ、そっか」
「で、案の定、抗日ゲリラに襲撃されて・・・」
「えーっ」
「惨殺されてしまいます」
「えっ、えっ、えー!そうだったのですかあー」
「楫取道明、三十七歳。台湾に死す・・・です」
「その後、犠牲になった六人の碑(学務官僚遭難之碑。伊藤博文揮毫)が建てられまして、台湾教育者の鑑として祀られたわけです」
「うーん・・・」
「楫取素彦は、どう思ったでしょうかね。彼にとって道明は、必ずしも出来のいい息子ではなく、ふがいないと思っていたのですが、死して教育者の鑑という名誉を得たわけです。複雑ではなかったでしょうか」
「そうですねー」
「その後、第二次大戦ののち、日本のものは何もかもいけんという風潮の中
で、この碑は壊されてしまいました」
「あら」
「しかし、李登輝政権のもとで、復権を果たし、平成十二年に碑は再建されました」
「うわあー、最近ですね。そんなお話を聞くと、歴史が身近なものとして感じます」
「で、道明没後の翌明治三十年に、道明の次男(長男は夭折)三郎が編集した歌集が『催涙
集』です。すっかりお忘れかもしれませんが(笑)、これで、楫取素彦と美和の三つの涙―『涙松集』『涙袖帖』『催涙集』―のお話でした」
○文の姉、寿とは
「今日は、文さんのお姉さんの寿さんの話をします」
「どんな人だったのですか」
「楫取素彦の最初の奥さんで、嘉永六年(一八五三)七月二十六日頃楫取二十五歳、寿さん十五歳の時結婚しました」
「若い・・・」
「どういう人だったかといえば、松陰の言葉をかりますと・・・例によって難しい言葉ですが、敏彗であるだと」
「びんすい・・・」
「ま、知恵があって気が利くと・・・まあ頭がいいのだよと」
「はあ、はあ」
「エピソードがいくつかありまして。まあ怜悧な人という感じですね」
「しっかり者ですか」
「ええ。松陰と永別する時も、三人の妹のなかでは一番落ち着いていて、動揺していなかったと伝わります」
「えーと、寿さんが、三姉妹の一番上でしたっけ?」
「いや、真ん中。千代・寿・文の順です」
「そうでしたー」
「千代さんの六歳下、文さんの五歳上です」
「楫取とは、けっこう年が離れているのですね」
「十歳差です」
「あと、禁門の変のあと、楫取も獄に入れられた時期があります」
「そうなのですか」
「久坂とか高杉たちと、同列の一味だということで」
「過激派、反幕派だということですか」
「まあ、そんなところです。で、獄に入れられるわけですが、奥さんの寿さんがいろいろ差し入れしたという逸話があります」
「はいはい」
「差し入れしてはいけないのですけどね」
「ん・・・」
「それくらい大胆なわけですよ」
「そーですねー」
「で、妹の文さんを誘って行ったりするわけですよ」
「アハハ、文さんには迷惑な話ですね」
「そうそう、別に文さんは、行く必要はないのですからね。寿さんも、さすがに一人では怖かったのかもですね(笑)」
「そうでしょうね(笑)」
「ただ、文さんは獄と聞いただけで、怖がって役にたたなかったといわれています。その辺、二人の性格の差があらわれています」
「肝が座ったお姉ちゃんだったのですね」
「そうですね。私の印象では、寿さんはシャキッ、文さんはナヨッという感じ・・・」
「そうですか(苦笑)」
「」「」「」「」「」
◎芝山巌学堂事件―楫取道明、台湾に死す
「楫取道明は、ほか五人と共に台湾の芝山巌という所の小学校に派遣されます」
「しざんがん・・・ですか」
「はい。学校のことを学堂ともいいまして、現地の芝山巌学堂に勤務します。ここで、事件が起きるのです」
「何が起きたのでしょうかー(ドキドキ)」
「道明は、明治二十八年六月に台湾に渡ったのですが、半年後の翌明治二十九年一月一日ですよ」
「おめでたい日ではないですか」
「大惨事が起こりまして」
「はあ・・・(ドキドキ)」
「当時の台湾は、日本に併合された(日清戦争後の下関条約による)ばかりで、日本に対する反感が強く、危険だという感じがあったわけですよ」
「なるほど・・・」
「日本側の史料では、匪賊(ひぞく)という難しい漢字を使っていますが、要するに抗日ゲリラですわ。そういう連中が跋扈していたわけです」
「うんうん」
「しかし、道明たち六人は台湾に残ったわけです」
「なぜですか?」
「いや、まあ。それが教育者の使命だとか、そういう感じで・・・」
「長州人らしいですね」
「いや、六人の先生のうち、長州人は道明とほか一人(井原順之助)です。ほか(関口弥太郎・中島長吉・桂金太郎・平井数馬)は違いますよ」
「あ、そっか」
「で、案の定、抗日ゲリラに襲撃されて・・・」
「えーっ」
「惨殺されてしまいます」
「えっ、えっ、えー!そうだったのですかあー」
「楫取道明、三十七歳。台湾に死す・・・です」
「その後、犠牲になった六人の碑(学務官僚遭難之碑。伊藤博文揮毫)が建てられまして、台湾教育者の鑑として祀られたわけです」
「うーん・・・」
「楫取素彦は、どう思ったでしょうかね。彼にとって道明は、必ずしも出来のいい息子ではなく、ふがいないと思っていたのですが、死して教育者の鑑という名誉を得たわけです。複雑ではなかったでしょうか」
「そうですねー」
「その後、第二次大戦ののち、日本のものは何もかもいけんという風潮の中
で、この碑は壊されてしまいました」
「あら」
「しかし、李登輝政権のもとで、復権を果たし、平成十二年に碑は再建されました」
「うわあー、最近ですね。そんなお話を聞くと、歴史が身近なものとして感じます」
「で、道明没後の翌明治三十年に、道明の次男(長男は夭折)三郎が編集した歌集が『催涙
集』です。すっかりお忘れかもしれませんが(笑)、これで、楫取素彦と美和の三つの涙―『涙松集』『涙袖帖』『催涙集』―のお話でした」
○文の姉、寿とは
「今日は、文さんのお姉さんの寿さんの話をします」
「どんな人だったのですか」
「楫取素彦の最初の奥さんで、嘉永六年(一八五三)七月二十六日頃楫取二十五歳、寿さん十五歳の時結婚しました」
「若い・・・」
「どういう人だったかといえば、松陰の言葉をかりますと・・・例によって難しい言葉ですが、敏彗であるだと」
「びんすい・・・」
「ま、知恵があって気が利くと・・・まあ頭がいいのだよと」
「はあ、はあ」
「エピソードがいくつかありまして。まあ怜悧な人という感じですね」
「しっかり者ですか」
「ええ。松陰と永別する時も、三人の妹のなかでは一番落ち着いていて、動揺していなかったと伝わります」
「えーと、寿さんが、三姉妹の一番上でしたっけ?」
「いや、真ん中。千代・寿・文の順です」
「そうでしたー」
「千代さんの六歳下、文さんの五歳上です」
「楫取とは、けっこう年が離れているのですね」
「十歳差です」
「あと、禁門の変のあと、楫取も獄に入れられた時期があります」
「そうなのですか」
「久坂とか高杉たちと、同列の一味だということで」
「過激派、反幕派だということですか」
「まあ、そんなところです。で、獄に入れられるわけですが、奥さんの寿さんがいろいろ差し入れしたという逸話があります」
「はいはい」
「差し入れしてはいけないのですけどね」
「ん・・・」
「それくらい大胆なわけですよ」
「そーですねー」
「で、妹の文さんを誘って行ったりするわけですよ」
「アハハ、文さんには迷惑な話ですね」
「そうそう、別に文さんは、行く必要はないのですからね。寿さんも、さすがに一人では怖かったのかもですね(笑)」
「そうでしょうね(笑)」
「ただ、文さんは獄と聞いただけで、怖がって役にたたなかったといわれています。その辺、二人の性格の差があらわれています」
「肝が座ったお姉ちゃんだったのですね」
「そうですね。私の印象では、寿さんはシャキッ、文さんはナヨッという感じ・・・」
「そうですか(苦笑)」
「」「」「」「」「」