「花燃ゆ」予習編18(この日は、MCの徳田知世さんはお休み。代理は船本佳子さん)
◎禁門の変の後の文
「さて、文さんは久坂に惚れていましたが、久坂は禁門の変で亡くなります。その後文さんがどうしていたのかという話です」
「何をしていたのですか?」
「これまではよくわかっていませんでした。久坂が死んだ翌年の慶応元年に、当時文の義兄だった楫取が、文を慰める意味の歌を作っていますが、その前フリの文章に、文の状況が書かれています」
「はい」
「それを見ますと、久坂の若き未亡人(文)は、毎日泣き暮らしていると・・・。一年たってもメソメソしていたというわけです」
「よほど好きだったのですね」
「一緒に暮らした日々が短かった分だけ、いい思い出ばかりだったのでしょう。で、この後毛利興丸さんのおもり役をしていたという話があります」
「興丸さんというのは?」
「最後の藩主毛利元徳(定広・広封)の長男で、毛利の家督を継いでのちに元昭と名乗った人です」
「ははあ」
「この説は、昭和十年代の松陰関係本に連続して書かれています。ただ、これらは俗書ですので、その元ネタというか、原典が何なのか、私は気になっていました」
「わかりましたか?」
「まず、元昭関係から調べようと思いました」
「なるほど。文さんの史料はないですからね」
「元昭さんは、慶応元年二月七日に萩で生まれました。この年は結構大変な時期でして」
「はい」
「例の高杉晋作の挙兵のすぐ後でして、まだ藩内が混乱状態なのです。で、危ないので、興丸さんと母親の銀姫は、山口の五十鈴邸に転居しました」
「五十鈴邸とは?」
「今の山口大神宮の辺りにあった建物です。もとは宮司の居館でした。明治三年まではここで生活していました」
「ほー」
「ですから、文さんが興丸のおもり役をいていたのなら、萩ではなくて、文さんも山口にいたことになります。そして、興丸さんは明治三年五月二十七日に三田尻のお茶屋に転居しているのです」
「えー、お茶屋って、防府の英雲荘のことですか!」
◎美和は三田尻お茶屋に住んだのか
「もし、美和さんが興丸さんに付いていましたら、明治三年五月二十七日に三田尻お茶屋に移転してきたことになります」
「防府の観光的には、おいしい話ですね」
「その場合でも、その期間は短いです」
「はあ」
「そもそも興丸さんが母親と分かれてまで三田尻に移転してきたのは、この人の健康上の問題です」
「といいますと」
「虚弱なのですよ。で、わざわざ大阪まで行って名医といわれたボードウィンという外人医師に診察してもらい、内陸の山口よりも海岸沿いの三田尻の方が、興丸にとってはいいと診察されたのです」
「寒くないですしね」
「らしいです。で三田尻に移転しました。ところが八月に祖父の敬親公が口出ししまして」
「珍しいですね。そうせい公が・・・」
「興丸付の使用人は十四人いたらしいのですが・・・興丸は元来虚弱の上、そんなに女中に囲まれておんば日傘に扱っていては、よけいへなちょこになってしまうと」
「あらま」
「突如スパルタ教育を言い出しまして、女中は全員解雇されてしまいます」
「きびしいですね」
「もし美和さんが興丸付ならば、ここでクビになったことになり、わずか三ヶ月の三田尻勤務ということになります」
「そうですねー」
「ところが、その時解雇された女中の中に美和の名がないのです」
「ん・・・どういうことですか」
「何人か名前がわかっていまして、袖野・ヤヲ・タミ・ヒデ・サクラ・雲井・・・とありますが、美和の名がないのです」
「では、美和さんは最初からお茶屋に来ていなかったのですか?」
「いやー、なんともいえないですね。全員の名でもないようですし。今の時点ではグレーということにしておきましょう。もう少し調べてみます」
「グレーですか・・・」
「来たかもしれないですよ」
「かもしれない作戦ですね(笑)」
◎禁門の変の後の文
「さて、文さんは久坂に惚れていましたが、久坂は禁門の変で亡くなります。その後文さんがどうしていたのかという話です」
「何をしていたのですか?」
「これまではよくわかっていませんでした。久坂が死んだ翌年の慶応元年に、当時文の義兄だった楫取が、文を慰める意味の歌を作っていますが、その前フリの文章に、文の状況が書かれています」
「はい」
「それを見ますと、久坂の若き未亡人(文)は、毎日泣き暮らしていると・・・。一年たってもメソメソしていたというわけです」
「よほど好きだったのですね」
「一緒に暮らした日々が短かった分だけ、いい思い出ばかりだったのでしょう。で、この後毛利興丸さんのおもり役をしていたという話があります」
「興丸さんというのは?」
「最後の藩主毛利元徳(定広・広封)の長男で、毛利の家督を継いでのちに元昭と名乗った人です」
「ははあ」
「この説は、昭和十年代の松陰関係本に連続して書かれています。ただ、これらは俗書ですので、その元ネタというか、原典が何なのか、私は気になっていました」
「わかりましたか?」
「まず、元昭関係から調べようと思いました」
「なるほど。文さんの史料はないですからね」
「元昭さんは、慶応元年二月七日に萩で生まれました。この年は結構大変な時期でして」
「はい」
「例の高杉晋作の挙兵のすぐ後でして、まだ藩内が混乱状態なのです。で、危ないので、興丸さんと母親の銀姫は、山口の五十鈴邸に転居しました」
「五十鈴邸とは?」
「今の山口大神宮の辺りにあった建物です。もとは宮司の居館でした。明治三年まではここで生活していました」
「ほー」
「ですから、文さんが興丸のおもり役をいていたのなら、萩ではなくて、文さんも山口にいたことになります。そして、興丸さんは明治三年五月二十七日に三田尻のお茶屋に転居しているのです」
「えー、お茶屋って、防府の英雲荘のことですか!」
◎美和は三田尻お茶屋に住んだのか
「もし、美和さんが興丸さんに付いていましたら、明治三年五月二十七日に三田尻お茶屋に移転してきたことになります」
「防府の観光的には、おいしい話ですね」
「その場合でも、その期間は短いです」
「はあ」
「そもそも興丸さんが母親と分かれてまで三田尻に移転してきたのは、この人の健康上の問題です」
「といいますと」
「虚弱なのですよ。で、わざわざ大阪まで行って名医といわれたボードウィンという外人医師に診察してもらい、内陸の山口よりも海岸沿いの三田尻の方が、興丸にとってはいいと診察されたのです」
「寒くないですしね」
「らしいです。で三田尻に移転しました。ところが八月に祖父の敬親公が口出ししまして」
「珍しいですね。そうせい公が・・・」
「興丸付の使用人は十四人いたらしいのですが・・・興丸は元来虚弱の上、そんなに女中に囲まれておんば日傘に扱っていては、よけいへなちょこになってしまうと」
「あらま」
「突如スパルタ教育を言い出しまして、女中は全員解雇されてしまいます」
「きびしいですね」
「もし美和さんが興丸付ならば、ここでクビになったことになり、わずか三ヶ月の三田尻勤務ということになります」
「そうですねー」
「ところが、その時解雇された女中の中に美和の名がないのです」
「ん・・・どういうことですか」
「何人か名前がわかっていまして、袖野・ヤヲ・タミ・ヒデ・サクラ・雲井・・・とありますが、美和の名がないのです」
「では、美和さんは最初からお茶屋に来ていなかったのですか?」
「いやー、なんともいえないですね。全員の名でもないようですし。今の時点ではグレーということにしておきましょう。もう少し調べてみます」
「グレーですか・・・」
「来たかもしれないですよ」
「かもしれない作戦ですね(笑)」