3か月以上の旅を計画していたが理由(わけ)あって海外旅行から帰ってきたのでブログを少しずつ再開したい。
(海外での日記はフェイスブックに更新しているので関心のある人はコチラをどうぞ。)
帰国後ゆっくりしようかとも思ったがどうしても読書が体に染みついているようだ。
今私は「ブッダはなぜ女嫌いになったのか」という本を読んでいる。
なかなかおもしろい見解が続く本だ。
この本は29歳で出家する以前のブッダの女性関係に迫った本だからだ。
世界4大聖人に挙げられるほどのブッダなので私たちはたいそう清らかな人物だと認識している。
それなのにこの本を読んでいると、なかなか汚い半生を送っているかのように思えてくる。
特にブッダの息子ラーフラに関する出生理由などの記述を読んでいると私にはブッダの人生すべてを肯定することができなくなってしまう。
例えばブッダは息子にラーフラという名をつけている。ラーフラは“束縛・障害”という意味を持ちブッダ自身の言葉で邪魔者だといわれているのだ。またインドの悪魔“ラーフ”にちなんでいるという説があるのだという。たしかに献身的に子育てに従事する親を想像したとき自分の自由を奪う存在である子供は邪魔者のようなのかもしれないが“悟った者”であるブッダが弟子たちに残した言葉としては汚すぎると思う。
しかもブッダはラーフラが生まれてすぐ家出をするのだ。
私は約一か月間海外一人旅に出かけて様々な優しさを受けたが、自分の子を立派に育てた経験を持つ親の方がそうでない人より大きな優しさをもっているように感じたものだ。その点から考えるとブッダは最も愛らしいと感じることのできるはずの自らの子を育てた経験を持っていないどころか、見捨てて家出をしているのだ。
心理学的に、人は誰しも自分を肯定したがるものだ―――ブッダはあらゆるしがらみを断つことで苦しみから解放されると説いた人物だが、これは一種の自己肯定ではなかろうか。たしかに“愛する特定の人”を持つと万人を愛する判断基準が揺れ動くが、反対に「母ちゃんも笑顔にできないやつがお客さんを笑顔にできるのか」という理論を考えたとき苦しむのはどちらだろうか。
そもそも自他を幸せにしたいと望むこと自体やめろというのだろうか。(いや、それはないと私は思う。なぜなら弘法大師は「唯、対日如来ありて、無我の中に大我を得るなり」とおっしゃっているのだから。)
ブッダのことを疑った項は息子のことだけではない。妻に対する行いもそうだ。この本を読んでいると養母との関係性もそうだ。
昼ドラにできそうなくらいドロドロな恋愛模様がうかがえる(苦笑)
もしこの本に書かれている推測が正しければ、出家後のブッダの全ての言葉を学ぶ楽しみが増えるというものだ。
膨大なお経の中いったいブッダからどれほどの叡智を学ぶことができるのだろうか。
追伸:この本の著者、丘山万里子さんはブッダの妻ヤショーダラーの夫へのセリフに対し「夫に無理解、嫉妬深くヒステリックで残忍、夫が去ってなお、心の壊れないしたたかさの持ち主」云々と書いているが私はそこにヤショーダラーの夫・息子に対する愛を感じた。
この本にならって私もヤショーダラーの台詞を引用させてもらう。
私の心は嫉妬といさかいを好みますが、正しい行いを好む主人は、そのことをたびたびそれなく知って、恐れることなく楽々とおこりっぴう私を捨てて、インドらの国で天女たちをえようとしているにちがいありません。
天女たちを得るために、王位と私のひたむきな愛を捨てて夫は苦行をしているわけですが、その女たちがどんなに美しい姿をしているのか私には気がかりです。
神々の国での幸せを得たいというのが私の願いでは決してありません。自制心のある人なら得難いものではりませんから。この世でも来世でも、何とかして夫が私を捨てないでほしいというのが私の望みです。
このかわいそうなラーフラは、父の膝で動き回ることが決して許されないのです。
かわいげに方言をしゃべり、敵をも喜ばすこんな小さな息子を捨てるとは、あの人は優しげな姿をしていて賢明なのに、心がなんと冷酷で残忍なのでしょう。
石でできているか鉄でできているか、私の心も確かに残忍です。安楽になれた主人が王位を捨てて一人ぽっちで森に行ったのに、私の心は壊れないのですから。