たゆたう 1 | 塵吹雪

塵吹雪

自作小説
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 真夜中、丑三つ時よりは暁に近い頃、わたくしはふと目を覚ましました。普段は目ざましが鳴るまでは並大抵のことでは眠りから覚めることなどないのに、一体わたくしはどうしたことか、小春日和の空のように明瞭な意識があることを自覚していました。時刻を確認しようと、わたくしは枕元を手探りします。しかし、時計よりも先にわたくしの手に触れたのは、寝る前に水道水を汲んでおいたガラスのコップでした。その途端、わたくしは急に喉が渇いたような気がして、その喉を盛大に鳴らしながら飲み干してしまいました。
 「漸く、といったところでしょうか」
 唐突に聞こえたその声は男性のもので、一人でこの部屋に暮らしているわたくしは、咄嗟に身の危険を感じました。ところが、室内には人の気配どころか、カーテンの揺れる音すらしないのです。隣室のテレビの音かとも思いましたが、その割に声ははっきりと聞こえました。
 「ワタクシはここですよ」
 はっと、わたくしは、その声がわたくしの鼓膜を振わせて聞こえているものではないことに気がつきました。強いて言うのなら、広い教室の中で、大勢の人が同じ言葉を一度に囁いているような、そういうざわめきがわたくしの体内で起こり、収斂して脳が直接理解しているといった感覚でした。つまり、その何者かが今『いる』のは、わたくしの体の中ということなのでしょうか。
 「おや、気が付かれましたか。そうです、あなたの考えている通り、ワタクシはあなたの体をお借りしているのですよ。驚かれたでしょう?」
 驚いたというよりは、わたくしは未だに自身に何が起きているのかを把握することが出来ず、もはやこれが夢なのか現なのかさえ判らなくなりかけているのでした。わたくしは、自分の中に別の誰かが『いる』ということが、これほどまでに気分の悪いことだとは知りませんでした。
 「おやおや、これは随分と手厳しいことを仰る。ワタクシはあなたとお話出来てこんなにも喜んでいるというのに」
 くつくつと、今にも笑い出しそうな様子で、その誰かは私に語りかけます。しかし、『彼』の言葉が響くたびに、わたくしは皮膚を裏側からくすぐられるような気がし、甚だ不快な感覚で鳥肌が立ってしまうのでした。その声自体は真夜中に相応しく静謐で、かつ温かみのある親しみやすいものであり、わたくしも聴くのに吝かではありませんでしたが、しかしそれでも尚わたくしの体は、闖入者とも言うべきその相手に対して警戒心を抱いてしまうらしいのです。
 ともあれ、わたくしが陥っているこの状況は何だというのでしょうか。果たして何を契機として『彼』との会話が始まったのでしょうか。わたくしは疑問に回答するすべを持たず、サヴァン症候群のように、ただそういう状況であるという結果のみを認識できるだけなのでした。
 「ワタクシがなんなのか、気になりますか」
 少しからかう風に声の主はわたくしに尋ねます。気にならない筈がありません。しかし、わたくしは今、なんだかその答えを聞くのが怖いような気さえするのでした。
 「誰だって未知のものには多少なりおそれを抱くものですよ。まあ、あなたがどうしても拒むのであればワタクシも強いて正体を明かそうとは思いませんが・・・・・・。ここで言わなくても、いずれ分かることではありますからね」
 生来負けん気の強いわたくしは、その挑発めいた、というか挑発そのものの台詞に、かえって背中を押される形で言うほど大したことも無い覚悟をきめたのでした。
 「・・・・・・いいでしょう」
 わたくしは着物の裾の乱れを直し、布団の上に正座して次の言葉を待ちます。
 「ワタクシは、水です」
 わたくしの背中を一筋の汗が走り落ちました。