警察がいつ扉を叩くかもわからない
「日本なら自由がある」─東京に移住した中国人が語る「中国社会の窒息
ル・モンド(フランス)
Simon Leplâtre
日本の出入国在留管理庁によると、2023年時点の在日中国人総数は82万1838人。前年比で13%増えている。在留外国人を国別で見ると、中国人が最も多く、日本に暮らす外国人の4人に1人が中国人だ。
2019年にビザ取得の要件が緩和され、外国人が日本に在留しやすくなった背景には、日本の労働力不足がある。
カイシュエンはオーストラリアの大学の学位を持ち、キャリアもあったので、「高度人材」ビザを取得するのは簡単だった。そのようにビザを取得できない人は、語学学校に登録して学生ビザを取得し、日本語を勉強しながら仕事を探す。富裕層が取得する「経営・管理」ビザは、事業を起こすことが条件だ。
中国人が移住先に日本を選ぶもう一つの理由は、漢字だ。これは日本文化が中国の影響を受けてきたことの表れでもある。
「日本語をしゃべれなくても、交通機関で行き先がわからなくなることはありませんし、文章もそれなりに読み解けます。年長者を敬い、子供の教育を重視するところ、それから食文化も似ています」
そう語るのは元ジャーナリストの賈葭だ。現在、東京大学の客員研究員を務める。外見で差別されないのも重要だと言う。
「しゃべらなければ、中国人と日本人は区別できませんからね」
黄金時代から一変
日本の治安のよさも、中国人移民には高く評価されている。ジーンズにTシャツ、白髪交じりの頭にニューヨーク・ヤンキースの帽子をかぶった賈葭は最初、米国への移住を考えていたという。
「でも、待てよ、米国は不潔だし、以前、ニューヨークで二人の黒人に恐喝された経験があったことを思い出したんです」
賈葭のように、肌の色と犯罪を結びつけて語る中国人は多い。
「私の世代は、日本の漫画や日本食レストランで育ったので、日本にはいいイメージがあるんです」
賈葭は都心の洒落た店でアイスコーヒーを飲みながら、そう話す。生活費が安いのも、日本が移住先に選ばれる理由の一つだ。30年に及ぶ日本経済の停滞と、日本円の下落によって、日本は住むのに魅力的な国になったわけだ。
とはいえ、賈葭が日本で暮らす最大の理由は、自由を再び味わえるからだ。元ジャーナリストの彼がキャリアを築いた2000年代は、短期間で終わったにせよ、中国のジャーナリズムの黄金時代だった。
メディアが政治体制の是非を問うのは、その時期でももちろん不可能だったが、それでも汚職問題を調査し、性や不平等といったデリケートな問題も取り上げられた。性的少数者の祭典「上海プライド」には数千人が参加し、フェミニスト団体も公共の場で活動できた。大都市の住民にとって、書店、カフェ、画廊が表現の場となっていた。
ところが、習近平が2013年に政権を握ってから数年で、芽生えはじめていたこの市民社会が窒息していってしまったのだ。
批判の声を上げた者は、その代償を払った。賈葭も2016年に2週間、拘留され、習近平辞任を求める公開書簡を出した編集者との関係を問いただされた。この一件以来、賈葭はメディア業界で仕事を見つけられなくなり、2017年に起業して国外移住の仲介業者となった。自分も国外移住すると決めたのは2020年だった。
「私の妻もジャーナリストなので、(2020年1月~4月の)武漢の都市封鎖後、現場を見に行ったんです。そうしたら、武漢のありとあらゆるビルに、ウイルスに勝利したというけばけばしいプロパガンダが掲げられていてね。武漢の住民が耐え忍ばなかったことの数々を思うと、おぞましさを感じました。そのとき、妻も私も国を離れるべきときだと言い合ったんです」
賈葭が日本に渡ったのは2023年だった。妻に遅れること1年。東京大学が招聘してくれたおかげだった。賈葭は言う。「ここなら検閲を恐れずに書けます
もう誰も未来を信じられない」
人権派弁護士の李金星も、日本なら自由があると考えてやってきた一人だ。2019年に中国での弁護士資格を取り消された。いまは日本で暮らす中国人のために、中国の文化や政治に関連するイベントを開催する仕事をしている。冒頭の阿古智子教授の講演が催された小さなイベント会場をオープンさせたのも彼である。
壁は白で、折り畳み椅子はグレー。棚のスペースは、半分くらい何も置かれていない。ここでは2023年前半から講演会が次々と催されてきた。講演会のテーマは、中国における資本主義の役割、20世紀前半の東京在住の中国人知識人、米国の大統領選挙の論点など多岐にわたる。ドキュメンタリー映画を上映することもある。
東京での新生活が気に入っている李金星だが、中国を離れるのはつらかったという。表情が豊かなこの40代の男性は、ため息をついて言う。
「亡命者である私たちは、国に残してきた人のことが始終気がかりです。自殺してしまった人もいますし、まだ投獄されている人もいます」
李金星はそこで話を止め、頭を両手で抱えたが、すぐに涙を流した失態を詫びて、話を再開した。北京で暮らしていたときの彼は、キリスト教徒の弁護士として二重生活を送っていた。実業家の弁護を引き受けてお金を稼ぎ、人権問題の弁護は無償でやっていたのである。
2013年には、「拯救無辜者洗冤行動(冤罪を晴らし、無実の人を救うプロジェクト)」という団体を創設した。中国の法制度では、被疑者の99%が有罪になるが、拷問で自白を引き出すようなこともされている。李金星が創設した団体の目的は、そうした法制度のもとで下された重い判決の見直しを求めることだ
この団体の活動の存続が危ぶまれるようになったのは2015年7月、中国全土で250人を超える弁護士が逮捕されたときからだ。李金星と親しい人も逮捕されたという。
「私自身は逮捕を免れましたが、自分の子供のことが心配になりました。(当局に拘束された)弁護士の李和平や王全璋の子供たちは、国外の学校に移ることも妨害されました」