「お金もない。だから、場所はなかった」ジュリアーノ・アレジ22歳の告白《夢だったF1への絶望と日本に見出した希望》
注目の若手レーシングドライバー、ジュリアーノ・アレジ。22歳。なぜ彼は本場ヨーロッパを離れ、遠い日本にやってきたのか? photograph by Asami Enomoto
昨年から日本のモータースポーツ界に参戦しているジュリアーノ・アレジ、22歳。元F1ドライバーのジャン・アレジと日本の人気女優である後藤久美子を両親に持ち、本場ヨーロッパでもその才能は認められつつあった。
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では、なぜジュリアーノ・アレジは本場ヨーロッパから遠く離れた日本にやってきたのか。ヨーロッパでの苦悩の日々と日本参戦の秘話を聞いた(全3回の2回目/#1、#3)。
父はスター選手「僕は僕、お父さんはお父さんなので」
フェラーリでF1を闘った経歴を持つ父親ジャン・アレジを追うように、ジュリアーノ・アレジは2016年、フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)に選抜されトップドライバーへの道を歩み始めた。モータースポーツの世界に足を踏み入れてからは父アレジから厳しい指導を受けたとジュリアーノは言う。 「父は、トレーニングとか、決断や自制についてすごく厳しかった。でも父から『~をしろ! 』と言われたことはない。とにかく『あなたがやりたいなら、あなた自身がやらなくちゃいけない。僕はあなたのために何もできない』と何度も言われました。 早起きすること、夜遊びしないこと、飲まないこと、とにかく自制すること……父は、すべては僕が自分からやらないといけないということを気づかせてくれたし、自分に厳しくすることを教えてくれました」 では、コースの上でどんな走りをするべきか具体的な指導はなかったのだろうか。 「そういうのはなかった。でも、上手くいったときは理由を知りたいし、うまくいかなかったら、何でうまくいかなかったのかを知りたいですよね。そういうとき父は、外から見た状態を僕に説明してくれました。僕はどうだったか、他の選手はどうだったか。でもその後、何が良かったのか悪かったのかは、僕が自分で考えるんです」 元F1ドライバーを父親に持っていれば、何かと比較もされただろう。ジュリアーノは外からの目をどのように感じていたのだろうか。 「僕と父を比べる人はいっぱいいましたが、それはレースを知らない人だったんだと思う。だって、僕と父とでは生きている時代も違う。父の頃は、4輪レースをするためには乗用車のライセンスが必要だったけど今は必要ない。乗用車のライセンスを持たないままF1に乗る人だっている(※)。状況が全然違うから比べられないし、僕自身も父を意識はしなかった。常に次のレース、次のレースにフォーカスしていました。僕は僕、お父さんはお父さんなので(※2016年よりF1のスーパーライセンス取得には運転免許が必要となった)
最終関門へたどりつきながら届かなかったF1
FDAに所属したジュリアーノは、2016年シーズンはGP3シリーズへステップアップしてレースを戦った。しかし前年のフランスF4選手権ほどに華々しい結果を残すことはできなかった。 「2016年から2018年、GP3を闘いました。時々クルマのパフォーマンスが足りないときはあったし、若かったから時々は僕自身がミステイクをおかしたりもした。でも悪い3年間ではなかった。2017年は2016年に比べて成長できたと思う。2018年も、僕のドライビングは成長したと思う。ただクルマの方があまり良いフィーリングにはならず、ちょっとバラバラなシーズンになってしまいました」 2017年は3勝してランキング5位につけたジュリアーノは2018年、ランキング7位で終え、2019年には上位カテゴリーであるF2へステップアップを果たした。F2はF1直下に位置づけられ、ここで好成績を残せばいよいよF1へ進出する可能性が広がるカテゴリーである。しかしF1への最終関門へたどりつきながらジュリアーノはここで思い通りの成績を挙げることができなかった。 「クルマのせいやチーム、エンジニアのせいにするのはあまり好きじゃないけど、でもやっぱりほんとに良くなかった。時々ポイントが取れたくらいで、表彰台に上がるなんて、あり得なかった」 確かにF2はGP3を勝ち抜いた優秀なドライバーが集まる激戦区で、そこで好成績を挙げるのは容易ではない。自分の能力やチーム体制、エンジニアリングが少しでも足りていなければ上位争いは難しい。しかしジュリアーノはもっと別の部分で苦戦したのだと示唆する。
「ステップアップするにつれ、どんどんお金がかかるようになって、スポンサーを見つけるのが難しくなっていきました。基本的に、僕のスポンサーはお父さんが探してきた。でも、僕たちのスポンサーはほとんど『友達』だったんです」とジュリアーノは言う
資金を動かせる選手が有利な立場を得るようになった
本来、スポンサーは広告・宣伝のために資金を提供し、提供された競技者は広告・宣伝効果を対価として返しビジネスを成立させる。しかしジュリアーノのスポンサーは「友達」であり、好意で資金を提供した後は対価を求めなかった。ジュリアーノにとっては、それはビジネスではなく、資金を得ながら内心忸怩たるものがあったのだろう。 さらに、ヨーロッパでは対価を求めないスポンサーの存在が大きくなり、選手の実力とそれに対して動く資金のバランスが崩れつつあった。その結果、実力がないにもかかわらず資金を動かせる選手が有利な立場を得るようになり、純粋に技量を競う場であるはずのスポーツが変質していった。これは、ジュリアーノにとっては面白くない流れだった。 「お金を持っているドライバーは、何回もテスト走行ができるから、レースウィークが始まったときには他のドライバーより速くなっている。レースウィークだけを見ている人は、そういうドライバーを速いと思うけれど、本当は全然速くない。名前は挙げたくないけど、ヨーロッパにはそういうドライバーがいっぱいいる」 モータースポーツは「限られた練習の中で順位を競うスポーツ」だと言われる。確かにこれは不文律ではある。しかし資金豊富なドライバーはただでさえ充実した体制を整えられる上、不文律を超えて練習ができるので公平な競技が成立しにくくなっている。ジュリアーノは名前こそ挙げなかったが、そういうドライバーに先を越され、F2の壁にぶつかってF1への道を閉ざされてしまったのだ。 ジュリアーノが2シーズンF2を闘った後、2021年1月のテスト走行をもって5年間にわたるFDAでの活動を終えることになった際、父アレジは「私にはF1チームを息子に買ってやるだけの金はない。ヨーロッパにはフェアなモータースポーツ環境はなくなった」と言った。ジュリアーノもそれを認める。「たしかに父はそう言っていた。ヨーロッパのモータースポーツはすごく汚いと思うって」 こうしてジュリアーノはヨーロッパでF1を目指すことをあきらめ、日本へ転進することを決めた
なぜ日本を選んだのか?
「ヨーロッパであれ以上はもう無理。リザルトはないし、お金もない。だから、場所はなかった。もちろん、いい気持ちではなかったけど、でもすぐ前に行かなきゃいけなかった。後ろを見ている時間はなかったから」 ジュリアーノが転進先に日本を選んだのは、自分のルーツの1つであることと、何より以前から日本には高いレベルのモータースポーツ界が独自に発展していることを知っていたから。以前から活動する可能性を考えていたという。 「何年か前から日本でスーパーフォーミュラ(SF)に乗りたいと思っていたの。SFは、F1とF2の間、F2よりF1にずっと近いカテゴリーだと知っていた。それで2020年の9月だか10月だかに日本に来て、トムスの舘(信秀)さんと話したんです」 舘が率いるトムスは、SFやSUPER GT(SGT)など国内トップカテゴリーを中心に幅広い活動を展開している日本のトップチームであり、海外の若手を起用して育てることでも定評がある本場ヨーロッパでも名前の通った名門だ。 「舘さんは、『SFは無理だけど、どうしても日本に来たかったら、(SFの下位カテゴリーである)スーパーフォーミュラ・ライツ(SFL)でシートを空けられるかもしれない』と言ってくれました。その時点では確約ではなかったけれど、それでも挑戦したかった」 その後、トムスは正式にジュリアーノをSFLのドライバーとして迎えることを決め、ジュリアーノは2021年、日本のレースにデビューした。SFLは、F2に比較すれば格下のカテゴリーではあったが、ジュリアーノはその後の可能性を信じてトムスに飛び込む決断を下した。
「SFに乗りたい!!!」トムス監督に電話し続けて…
ジュリアーノは初めて走る日本のコースでシリーズチャンピオンを争う活躍を見せたが、シーズン途中にはSFに参加できなくなった選手の代役として念願のSFにもスポット参戦、悪天候によるレースの混乱にも助けられてなんと優勝するという大金星を挙げた。SFLシーズンでは最終的にチャンピオンと総合同得点でランキング2位には終わったが、これらの活躍が認められ、今年ジュリアーノはトムスでSFとSGT、GT500クラスのレギュラードライバーとして国内トップドライバーの1人に名を連ねることとなった。 「とにかく、どんどんプログレスしたかった。もちろん、クルマと外国人ドライバーのエクスペリエンスがあるトムスにはすごく助けられた。僕が日本語を少し話せたのも良かった。でも、そこからのパフォーマンスは僕とチームと一緒になって探す必要があった。もちろん今でもそこに集中しています。 今年、SFとGT500に乗れることになったのはすごく嬉しかった。去年、8月、9月、10月は舘さんや山田さん(淳。トムス監督)に、『SFに乗りたい、GT500に乗りたい』と電話し続けたんです。もしかしたら、電話が鳴るたびに『またアレジ!? 』と嫌がられたかもしれないけど(笑)、本当に乗りたかったから電話し続けた。正式に決まったときには最高だった」 ヨーロッパに絶望し日本に希望を見いだしたジュリアーノは、自身の熱意で望み通り活路を切り開いたのである。 <#3に続く> 撮影=榎本麻美
(「モータースポーツPRESS」大串信 = 文
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