<ジャパニーズ・ブラック・アメリカンの写真家、チエスカ・フォーチュン・スミス。彼女の写真は、私が出会ってきた30代前後の日系2世たちのイメージに似ている>
今回取り上げる写真家は、アメリカ人のチエスカ・フォーチュン・スミス。彼女の作品を初めて目にしたとき、不思議な感じがした。すごく荒削りなのに、作品がどこかちぐはくで首尾一貫性がないのに、得体の知れない、まとわりつくような魅力が放たれていた。同時に親しみやすさも漂っていた。
それはここ数年、しばしば偶然に出会ってきた、30代前後の日系2世たちが持っていたイメージに似ていた。彼らはフレンドリーで自信に満ちていたが、同時にどこか不安の中に存在していた。独断と偏見をもって言えば、彼ら自身のアイデンティティー所以だった。
アメリカ生まれアメリカ育ちでありながら、完全なアメリカ人にはどこかなりきれない。そんなアイデンティティー喪失症候群的な要素を持っていた。それも一昔前のものではなく、この新しい時代、ポスト・グローバリゼーションの、なぜかナショナリズムに寄り始めた時代に特有のアイデンティティー喪失症候群。それが、多かれ少なかれ彼らに影響していたのである。
実際スミスは、日本人を母に持つジャパニーズ・ブラック・アメリカンだ。今年39歳になる。大学まではアメリカで育ったが、その後は一時日本で生活し、以後はロンドンで暮らしている。
メールでのやりとりの中で、彼女はこう答えてくれた。「写真を通して、自分自身を(自分が何者であるかを)探している......写真は自らと外界とをつなげる乗り物だ」。写真はまた、そうした役割を担ってくれる"薬"でもあるのだという。
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無論、スミスがどこまで自らのアイデンティティーに葛藤しているのか、あるいはしていないのかは簡単には推し量れない。だが、作品の中にミックス・アイデンティティーの葛藤的要素は確実に現れている。
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Chieska Fortune Smithさん(@chieskafortunesmith)がシェアした投稿 - 2017 3月 18 1:36午後 PDT
つまりはこういうことだ。どこか黒人的な匂いがするのに、いま流行りの多くの黒人写真家に見られがちなポリティカル・コレクト、あるいは黒人文化を前面に押し出すような匂いではない。アメリカ人でありながら、ストレートな白人アメリカ人の写真でもない。むしろ、ヨーロッパ的なムードを兼ね添えている。
そうしたものに、かつての日本的な何かと、加えてスミス自身の性格か、恩師であったというイギリスの写真家ブレット・ウォーカーの影響か、ユーモアの要素までが絡み合い、衝突し合っているのである。
これは彼女の写真の大きな魅力だ。アイデンティティーの危うさと作りものでない不協和音が、生のエネルギーを、それもステレオタイプ的な尖ったエネルギーではなく、むしろ柔らかな匂いのするエネルギーを解き放っているのである。
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そして彼女の写真は、すでに触れたように彼女だけを語っているのではない。スミスの作品には、彼女と同じようなミックス・アイデンティティーを持った人々の、この時代に生きる不安や思いが無意識にしろ現れているのである。それが必然と作品に大きな奥行きを与えている。
今回ご紹介したInstagramフォトグラファー:
Chieska Fortune Smith @chieskafortunesmith
Chieska Fortune Smithさん(@chieskafortunesmith)がシェアした投稿 - 2017 4月 22 7:53午前 PDT
Q.サカマキ