長篠設楽原の戦い〜鳥居強右衛門と鈴木金七郎重政
長篠設楽原の戦いの際、鳥居強右衛門が籠城していた長篠城を脱出して、岡崎の織田・徳川連合軍に救援を求めに向かい、その足で再び城へ戻ろうとして捕えられ、磔にされながらも援軍情報を伝えた話は、多くの人が知るところです。
当時の記録では(『長篠日記』『広祥院文書』)、岡崎へ向かった使者は二名とされ、もう一人が鈴木金七郎重政。
愛知県新城市では、その鈴木金七郎重政の業績を見直そうと数年前から会が作られ、縁の地に案内板が立てられています。
愛知県新城市富永。Googlemapでも出てくる鈴木金七郎重政の案内。生誕地として画像が出たりしますが、実は生誕地は別の場所にあります。
先程の説明板から歩いて数分にある生誕地の案内板。
読んでね。
お墓の画像が確認できますが、供養塔のようなもので、お墓は別の場所にあります。
生誕地は長篠設楽原の戦いの際に織田信長の本陣となった茶臼山の麓。
途中まで🚗で行って駐車場から100㍍ほど登ると本陣跡があります。
🐗に気をつけてねと言われて😱、坂道を登ると一族のお墓がありました(お墓の画像は貼りません)。
新城市は婿に入った爺さんの生誕地という縁があるから、ボチボチ調べていこうと思います😊。