Go to キャンペーン京都編~木幡から六地蔵へ(不焼山 能化院) | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

Go to キャンペーン京都編~木幡から六地蔵へ(不焼山 能化院)

午後は京阪電車に乗って木幡駅に降り立ちます。

私は木幡は「こはた」と思っていたら、京阪の駅名は「こわた」なんですね。JRは「こはた」なのに何でや?キョロキョロ

とにかく、京阪では初めて降り立つ駅です。木幡は京都市ではなく宇治市になります照れ

はじめは五ヶ荘の許波多神社を目指して黄檗方面に向かったのですが、マンションが延々と建ち並び、Googlemapにも出てこないから諦め、次に予定していた寺院へ向かいましたショボーン

この途中、マンションに挟まれた公園でおにぎりを食べてる時の虚しさといったらなかったですねえーん

そんな虚しさの中、とぼとぼ歩いて着きました。
 
 
不焼山 能化院

不焼山 能化院

宇治市木幡中村にある曹洞宗の寺。不焼山と号す。本尊地蔵菩薩。平安中期源信が創建、多聞山本願寺と号したと伝えるが、開創については諸説あり明確ではない。寛文四年(1664)長訓が再興。本尊(重要文化財)は、度重なる兵火にも関わらず焼けのこり、不焼(焼けず)地蔵の名で火災除けの信仰がある。

『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)

江戸時代の地誌によれば地蔵堂と記されていて、『山城名跡巡行志』には、「本尊恵心作開基不詳土民呼伝不焼地蔵」、『山州名跡志』では少し詳しく「此像獨飛林木中坐」地蔵菩薩がひとりで林の中に飛んで行って坐していたため、兵火を逃れたことが書かれています照れ

『新修京都叢書 第16巻、第22巻』(新修京都叢書刊行會 代表野間光辰 臨川書店 第16巻昭和四十四年、第22巻昭和四十七年)

木幡は交通の要所だったこともあり、兵火が絶えなかったのでしょう。木幡から六地蔵まで歩いている時に感じましたショボーン

 
ぐるっと周辺を回ったら収蔵庫がありました爆笑
 
 
どうやらこちらに本尊地蔵菩薩像が安直されているようですキョロキョロ

 
宇治市 能化院縁起

  当山は不焼山能化院と号し、延暦二十一年(802)延鎮法師の開基とされる。縁起によれば、はじめは多聞山観音院本願寺と号していたが、長徳四年(998)藤原道長の本願により恵心僧都自作による地蔵菩薩坐像(重文木造御長七尺)を安置して中興された。その後、平治の乱(1159)の兵火に堂宇は全て焼失したが、地蔵尊像のみ難をまぬがれ、その霊端により、二条天皇から不焼山能化院地蔵尊の号を賜り、建久六年(1195)源頼朝により再興されたが、承久の乱(1221)で再び堂宇を焼失したものの、地蔵尊像は焼失を免れたという。
 これにより人々から不焼地蔵の名とともに火災厄除地蔵として、また関白藤原頼通・基通の北の方にまつわる安産地蔵、子安地蔵として多くの信仰を集めている。

宇治市

一説に坂上田村麻呂の開基とあるのは、縁起の延鎮(清水寺開基)との絡みでしょうウインク

それにしても延鎮、藤原道長、源頼朝、藤原頼通と、そうそうたる人物が名を連ねています。

木幡は現存する宇治陵墓が示すように藤原氏一門の墓所があり、藤原道長が寛弘二年(1005)に浄妙寺(木幡三昧)を創建しているからでしょう。

次回は浄妙寺ゆかりの仏像を安置するお寺です。