2018京都 皐月~如意山 補陀洛寺 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

2018京都 皐月~如意山 補陀洛寺

上高野散策を終え、叡山電鉄鞍馬線八幡駅から二軒茶屋。

 
無料のスクールバスで学校へ学生さん達と向かうはずでしたが、雨の伏見同様、二軒茶屋の一つ先市原駅から静市市原を歩いた時も雨だったので、その時のリベンジと鞍馬街道をてくてく鞍馬方面へ。
 
 

 
如意山 補陀洛寺
 
前回は市原の大神神社、厳島神社参拝から向かったから近いイメージが残っていましたが、二軒茶屋からは意外と距離がありました。
 
 
京都謡曲史跡保存会の駒札
パソコンではこの画像は縮小しないのでよく読んで下さい。
 
 

 
石段の先に本堂が見えます。
 
補陀洛寺
 
旧地は洛北静原より二㌔余り東北の山中とも、また江文峠の辺りともいわれるが詳かでない。清少納言の曾祖父清原深養父が村上天皇の天徳三年(959)に自らの山荘を改め、僧延昌を開山として創建したことに始まる。数年後には御願寺となったほどの名刹であったが、中世に廃絶し、今は市原にわずかにその名をとどめるにすぎない。
 
『京都事典』(編者村井康彦 東京堂出版 昭和五十四年)
 
 
一人拝観だろうの予想は外れ、私の後ろには通称寺ご朱印目当ての男性二人、先に待っていた女性がいて月曜日なのに四人で拝観となりました。
 
 

 
本堂内部
 

 
小野小町老衰像
 
人気寺になったら内部撮影禁止を予定しているそうですが、未だ人気は今一歩のようで・・・まぁ場所が場所だけに、当分内部は撮影できそうです。阿弥陀三尊像は後述する小野皇太后の念持仏とされ、左隅に小町老衰像があります。
 
補陀洛寺は通称「小町寺」。この地は平安時代の歌人・小野小町の終焉地と伝えられています。
 
老衰像は幾つか拝見してますが、若い時のは無いですねぇ。百人一首の札も後ろ姿だし実際はどうだったのか。百夜通いするぐらいだからやはり美人だったのでしょう。ちなみに、前日大雨の中訪ねた京阪墨染駅近くの欣浄寺は百夜通いの深草少将宅と伝えます。
 
ここでご朱印の方々と老衰像目当ての女性が帰ってしまったので、境内に降りて一人でお寺の方の説明をお聞きしました。
 
ありがたいことに、前回は大雨で・・とか話していたので、声をかけてくれたのですね。
 
 

 
深草少将供養塔
 
 

 
少将供養塔の先に小野小町供養塔があります。
 
 

 
小野皇太后供養塔
 
小野皇太后は、藤原教通の三女で後冷泉天皇皇后・藤原歓子(1021~1102)。
 
『平家物語』では、後白河法王が大原の建礼門院を訪ねる途中、「鞍馬通の御幸なりければ、かの清原深養父が補陀洛寺、小野皇太后宮の旧跡、叡覧あってそれより御輿にぞ召されける」(鞍馬を通る御幸でしたので、かの清原深養父が建立した補陀洛寺、小野皇太后宮の旧跡を御覧になり、そこから輿に乗られました)とあります。
 
小町伝説は小野皇太后からの連想で・・・この地は小野氏の領地で・・・はやめておきましょう。ついでに。市原は昔市原野と言いましても無し。
 
境内は、年老いてこの地にたどり着いた小野小町終焉に相応しい雰囲気がありますから。
 
 

 
小野小町歌碑
 
百人一首のあの歌ですね。同じく小町縁の随心院のイメージが強いので歌はカット(笑)。すすきは後述。
 

 
小野小町姿見の井戸
 
その随心院さんと比べると・・とおっしゃっておりましたが、晩年の小町の姿見と思えば、伝わるものがあります。
 
 

 
この場所に小野小町の亡骸があり、その髑髏の目からすすきが生えていたと伝えます。「穴目のすすき」伝説ですね。
 
 
吾死なば
 
焼くな埋ずむな
 
野にさらせ
 
痩せたる犬の
 
腹肥をやせよ
 
小町辞世の句とも言われますが、橘氏を研究している私には、壇林皇后(橘嘉智子)の逸話の一つと思ってますがどうでしょう。江戸史に興味のある方は歌川広重でしょうか。
 
 
人気になったらとおっしゃっておりましたが、京都検定が始まってからは多くの受検者が拝観に訪れるようになったそうです。
 
みなさんテキストを読むばかりばかりではなく、直接拝観して勉強しているのですね。
 
そういえば、大徳寺、三宅八幡宮でテキスト片手に拝観している人いました。
 
さて、その京都検定成れの果ての私は、目の前のバス停から学校へ向かったわけです。
 
二軒茶屋まで戻る予定が、バスによっては学校経由ですと教えていただきました。