徳川家康四百回忌・遠州の家康伝説 二十二話。 | 菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)

徳川家康四百回忌・遠州の家康伝説 二十二話。

徳川家康四百回忌・家康伝説 第二十二話


冷酒の清兵衛

慶長年中のことである。

徳川家康は関ヶ原合戦のために多くの軍兵を率いて江戸から東海道を西進してきた。

見付宿(磐田市見付)近くに来ると、街道の傍らの松並木の中で酒を売っている者があった。

おりから寒い冬のことなので、軍兵たちはそれを見ると

「酒だ、酒だ」

「俺に売ってくれ」

「俺にも」

軍兵たちは八文づつ出して、冷酒を飲んでいた。これを見た馬上の家康も

「わしにもくれ、熱燗にしてくれ」

と言った。

すると酒売は、相手が家康と知ってか知らずか

「大将様、だめです。この寒空には燗酒だと酔ざめがして余計寒くなります。冷酒を一杯ぐっと召し上がると、後は暖かくなります」

「なるほど」

「冷酒を飲む元気で戦に勝ってきてください。ではどうぞ」

酒売をそういって、なみなみと注いだ酒を家康の前に持ってきた。

家康はぐっと飲みほすと、急に身体が心地よくなってきたので

「お前のいう通りだな。それ者共、進め!」

家康は元気になって駆けて行った。

やがて戦が終わっての帰り、家康は再びこの酒売の店に立ち寄った。

「お前のいう通り、冷酒はよくきくのう。おかげで戦に勝ったぞ」

「おめでとう存じます」

「そちは何という名じゃ」

「はい、清兵衛と申します」

「清兵衛か。これからは冷酒清兵衛と名乗れ」

「はい」

家康はその後もこの男の元気なのを喜んで

「冷酒を呼べ」

と城中に召し出しては、碁の相手などをしたという。


冷酒清兵衛は後に、植村清兵衛といって、町人ながら苗字帯刀を許されたということである。


参考・『遠州伝説集』(御手洗 清 遠州出版社 昭和四十三年)



解説

「中遠広域事務組合」のホームページ『中遠昔ばなし第62話』に冷酒清兵衛の話ありますが、文献と違った話なのでアップしておきます。

磐田市見付宿は、磐田原の綺麗な水が湧き出ていて、どぶろくや清酒を作るのに適していました。


その昔、馬場町に住む上村清兵衛は酒を作り、いつも冷酒を飲んでは自慢していました。

ある日、領主の徳川家康が見付を訪れた時、清兵衛が自慢の冷酒を勧めたところ、家康はたいそう気に入り、清兵衛を「冷酒清兵衛」と呼ぶようになりました。


しばらくして家康が見付の東側に来た時のことでした。家康を狙っていた武田方の武士に追われて、命かながら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は何とか追手から守らなければと、見付宿のあちこちに火を放ち、敵が街中に入れないようにしました。


武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の梅になって通れません。南を回れば水田で遠く、北は山道で追うこともできず、立ち往生してしまいました。


この間に家康は、清兵衛の案内で橋羽(浜松市東区中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、翌日無事浜松へ帰ることができました。


清兵衛は家康から手柄として、一本の名刀をもらいました。それから家康は、見付を通るたびに清兵衛のところに立ち寄りました。その都度、清兵衛から勧められた冷酒を飲み干していったので、ますますその名が広がったということです。


『磐田むかしばなし』より


かなり内容が違います。清兵衛の家は「黒木屋」と」いう屋号であったという話があります。『磐田むかしばなし』はそのまま妙恩寺の伝説(徳川家康四百回忌・遠州の家康伝説 第十二話)にもつながりますから、伝説といえども、あたまから否定はできないですね。


※『磐田むかしばなし』では、妙音寺、中野町となっていますが、浜松市東区天竜川町の妙恩寺になります。