僕の居場所。
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絆~Tumugi~・・・10話。

「先生、顔を上げてよ?・・・ねぇ、境のことを一番知っているのは、先生だよね?愛した息子だもんね?」

真理子はようやく顔を上げたかと思うと、大粒の涙を流しながら「ごめんなさい」と大声で言った。

自分が息子を傷つけたことへの失望感、惨めな自分、泥沼の人生、全てが醜かった。

子供を守り、育てることが真理子の義務だったのに。

想像したくなかった。

真理子は何の悪気もない、純粋な女性だと思っていたいのに。

傷つけられたのは真矢子だけではない。息子である境も、基も、真矢子も、私だって。

今までにこんな残酷なことをする人を見ただろうか?いや、見たことがない。

けれど私の目には、寂しがりな真理子の姿が映る。孤独と闘い、堪え切れない程の憎しみを抱えて育ってきた。ずっと、一人で・・・。

「紬・・・」

真理子が私の名前を呼んだ。

「何?」

私はとっさに聞き返した。

真理子はベッドの中に顔を埋め、

「私、きっと心がいかれてるのよ・・・精神科の病院で、生活するわ」

『精神科』の三文字。

真理子には不似合いの、乱れた言葉。

「どうして?先生には夫や息子がいるじゃない!放って置くの?学校は?」

真理子は私の腰を抱き寄せ、決心したように言った。

「全部話すのよ。私が人を殺そうとした、ってことを知れば、すぐに納得してもらえるわ」

私は震えながら真理子を跳ね飛ばした。

 

隣の病室からナースが駆け込んで来るのを見たとき、私の目にはうっすらと涙がにじんでいた。

―精神科・・・真理子は、いかれてる・・・。

 

 

絆~Tumugi~・・・9話。

四階の病室に戻りベッドに腰を下ろすと、私は真矢子を椅子に座らせた。病院側が貸してくれる、丸い折りたたみ椅子だ。それに座らせていると、姿勢の良さが目にはっきりと映って離れなかった。さっきの写真をベッドの上に置き、口を開いた。

「どういうことなの?」

写真に映っている年号は大分昔のもので、赤ん坊の私を抱いた真矢子と、男の子を抱いた真理子が映っていた。

「私と真矢子は、姉妹なんだ。私の旧姓は『王城』って・・・聞いたことあるでしょう?」

これでピンときた。どうりで顔や体型が似ているはずだ。

「でも、先生と少し違う気がするの」

何処となく雰囲気と言うか、話し方も違う。少しだけ擦れるように違うのが、姉妹としていい点なんだろうけど。

「私は、真矢子と似ている自分が嫌だった!」

『真矢子』の部分に、大きくとげを刺すように、ギシギシと踏み躙るように言い放つと、目を大きく見開いた。

「あの人は私と違って、成績も良くて運動神経も良くて、何もかも完璧だったのよ!私は親に、いつも真矢子と比べられて、『似ているのは顔だけか』ってよく言われて・・・恋愛でも上手くいかなくて!それで私、真矢子が大嫌いで、口も聞かなくなったのよ。なのに、相変わらず恋愛は上手くいって、子供までできたって聞いたから、腹が立ったのよ。愛情のある家庭まで持って!」

真理子は思い出しながら、右手で拳をつくり、壁をダンッ!と殴ると、下を向いていた。

「だから私、基を脅したのよ。『貴方は病気持ちの癖に、真矢子を幸せにできるとでも思ってるの?』ってね。そしたらあいつ、相当ショックを受けたらしくて、体が弱ったんだってね。二人の仲を引き裂き、幸せを壊したのは私よ。私が、基を殺したようなものだから」

私は言ってやりたいことがあったが、黙って聞き続けることにした。

「それからは、真矢子に似ている自分が本当に嫌になったから、外見も変えてしまおうと思ったのよ。化粧水を美白のに変えて、髪も真っ黒に染めて、パーマをかけたの。そしたら、少しは変わったのよ。わかる?この気持ち!」

私には姉妹が一人もいないから、真理子の気持ちはわからない。愛情のない家庭で育ったこともない。けれど、もし・・・もしそんな家庭に生まれ育ったらどうだろう?きっと、泣き崩れて、嫉妬してしまうに違いない。

「境とはどういう関係なの?」

私は思い切って聞いてみた。真理子は顔を上げ髪を少しだけ掻きあげた。

「境は、私の息子よ」

あっ、と息をのんだ。私は繋がりをよく知らなかったから、そんなことが聞けたんだ。

そう、後悔した。先が見えてしまったから、視線を外してそれからの予想を話す。

「つまり、貴方は真矢子に復讐をする為に結婚し、子供まで産んだんですね。境にいろいろと仕込んでは、実行させようとした。けれど境は真矢子が好きだったから、貴方は境を苛め、夫とも言い合いをした上に離婚まで話が持ち上がったそうですね」

真理子は真っ青になって、頷いた。その顔に余裕の文字はなかった。口元で細かく息をし、堪えていた涙を流しながら、ベッドの上に顔を埋めた。今までどれだけ無理をしてきたんだろう?

「私、最低よね。わかってるわ・・・もう、本当に離婚しようと思ってるのよ。その方が境にとっても、私にとってもいいはずだし」

私は真理子を揺さ振って、全否定した。

「そんなはずないわ!境は、本当は貴方を必要としてるのよ!貴方は気付いてないんだろうけど、境は温かい家庭を夢見てて、それで真矢子に甘えていたのよ!元の家庭に戻れば、きっと上手くいくはずなんだから!」

真理子は涙を流しながら首を横に振った。口をガクガクさせながら、諦めた顔をする。養子には、反対だった。

―境は絶対に、貴方を必要としてるもの!

 

絆~Tumugi~・・・8話。

「お母さん」

私は病室の窓から外を覗いながら、母を呼んだ。母はすぐに、剥いた林檎を持って現れた。私は凹んだ時によく林檎を口にしたものだ。

母はきっと、こうすれば、今日もこれで少しは気分が良くなるだろう、と考えたんだと思う。目の前で林檎を剥かないのは、私が自殺未遂でナイフを手にしたから。動揺して騒ぎ出すのを防ぎたかったんだろう。

 私は、林檎をひとつ取り、口の中に入れ、むしゃむしゃと食べた。ラップは掛けてあったものの、林檎は少し茶色に褐色していた。

「レモン汁をかけておくと、褐色しないよ」

私は、自分が知っていた小さな知識を母に教えてあげた。小さい頃から料理を覚えてきた私は、失礼だけど、母より料理上手だ!って胸を張って言える。

「あら、そうなの?知らなかったわ」

自殺未遂を図る前までとは全く逆の、真矢子の表情に驚いていた。柔らかい、というかふんわりとした自然な笑顔だ。

「じゃあ、明日はレモン汁をたーっぷりかけた林檎を持ってきてあげる!」

真矢子はニカニカしながら、私の体をブンブン揺すった。

「そんな林檎、酸っぱすぎて食べられないからー!お腹壊して倒れたら、お母さんのせいだからね!」

「もうっ!失礼なんだから!」

私達は、まるで姉妹のように笑い合い、はしゃぎあった。小説で例えるならば、『赤毛のアン』に出てくる、アンとダイアナみたいに。

 

 「あ!」

お母さんが急に思い出したように、私からすっと離れた。そしてバッグを肩に提げ、優しく私の頭を撫でると、

「ごめんね、紬。これから行かないと行けない所があってね・・・また明日来るから」

と言ったまま、微笑みを残し、病室を後にした。私は真矢子の頬がほんの少し引きつったように見えて、それがどうしても気がかりでしょうがなかったから、病院の中だけでも真矢子の跡をつけることにした。

本当はこんなストーカーみたいな真似はしたくないのだが、真矢子が誰と会うのかが気になってしまう。

やっと追いついた時には、真矢子は、病院の玄関から出ていこうとした。

ここから先はもう、私が行ける距離ではないと予想したから、私は回れ右をして病室に向かった。

すると・・・。

「ここにいたの!」

何処かで聞き覚えのある女性の声が、後ろから聞こえ、私は振り返ってその女性を見た。

「さっきから十回以上電話掛けてるのに、通じないからさ」

美女の冷たい視線は、真矢子を冷やかに傷つけたがっている。

「ここは病院だろ、少しは声のボリューム落とせよ」

真矢子の声色がじわじわと変わっていくのが、目に見えた。

「あんたは結局、紬のことしか頭にないんじゃないか!」

その女性は激怒し、真矢子を両腕で突き飛ばした。この間も傷も完治していないというのに、真矢子は目の色を変えて叫んだ。

「そっちはどうなのよ!境を散々傷つけておいて、しかも離婚の危機だって言うじゃない!養子に送ればいいってもんじゃないのよ!」

女性の胸ぐらを掴んでヤンキーみたいに脅す真矢子はこの間以来だった。

「あんな奴は、私の家には必要ない!」

バシーン!

病院の中の空気が、一瞬にして緊迫したムードに包まれた。真矢子が、その女性の頬を思いきりビンタし、涙を零している。女性はしばらく動揺していたが、ふと我に返ると冷たい視線で真矢子を見、静かにこう告げた。

「姉さんが・・・私の人生に口出しするのは、必要ないから。こっちの問題は、こっちの問題だし」

真矢子はもう何も言わない、と言う風にバッグで女性を殴ると、病院を出て行った。

その拍子に、バッグから一枚の写真が落ちたので、私はしゃがんでその写真を取り、じっくりと眺めた。

・・・。

言葉が見つからない。

「紬・・・?」

その女性に声を掛けられ、私は言葉を口にすることが出来なくなった。

「ずっと前から見てたんでしょ?気が付いてたわ」

わざとに口調を変えたようだが、冷たい視線だけは変わらない。私は内心ビクビクしていたが、引き下がることをしたくなかった。

「お母さんとどういった関係なのか、教えてくれますよね?真理子先生!」

真理子は戸惑いながらも、「ええ」と呟いた。

絆~Tumugi~・・・7話。

「紬・・・紬!」

 あの時、私はもう死んだも同然だと思っていた。けれど、私は今こうして生きている。ここは一体何処だろう?私は真っ白のベッドに横になり、手首の傷は包帯で手当てがしてある。私の目の前には、泣きじゃくる真矢子の姿。どうやらここは病院らしい。あの後意識を失った私を、ここまで連れてきたんだろう。私が目を覚ましたことに気が付くと、私の手をとるなり、自分の頬まで持っていき、優しく両手で包んだ。

「温かい、わ・・・良かっ・・・た、本当に良かっ・・・た・・・」

真矢子は話すのがいっぱいいっぱいといった感じで、私が生きているのが本当に良かった、と何度も何度も言って聞かせた。私は勘違いをしていたようだ。自殺未遂を図った時点で、私は真矢子に嫌われたと思っていた。自分の娘が、自分を思いきり傷つけるようなことをしたから。これ以上に心配を掛けることはないのに。

「私のこと、嫌いじゃないの?」

私は真矢子の潤んだ瞳をしっかりと見ながら聞いた。すると真矢子は、驚いたように私の体を抱きしめた。

「嫌いな訳ないじゃない!私の、命よりも大切な・・・たった一人の娘じゃない!」

私は、瞬きをするのも忘れて聞き入った。

「貴方が自殺未遂を図ったとき、私・・・いっそのこと死んでしまおうかと思ってたのよ。貴方が死んだら、私はもう・・・生きてる資格なんてないもの。貴方がいないと・・・」

その瞬間、目からつーっと雫が零れ落ちた。

これは何だろう?片手で目の下に手を当てると、余計に雫が零れ落ちる。

これは、涙。これが・・・涙ってもの。

「私を一人にしないで、紬」

真矢子が私を抱きしめる手に、ぐっと力がこもった。瞬きもせず、涙だけがぽろぽろと零れ落ちていく。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになり、私は真矢子を抱き返した。

「・・・紬?」

私が真矢子を抱きしめるだなんて、珍しいことだ。天がひっくり返ってしまうんじゃないか?なんて思ってしまったり。泣きじゃくっている私は、なんて弱気なんだろう。

「ごめん、真矢子」

今まで散々、反抗していた。真矢子に申し訳ないなんて思ったことは、一度足りとも思ってなかった。それでも真矢子は私を精一杯愛して、見守ってくれてた。有難味もない私なんかの為に。

「何泣いてんのよ、紬らしくないわ」

私はわざと笑って、ごまかした。

「泣いて・・・なんか、ないから!真矢子って本当、単純だもんね。娘に、抱きしめて貰った位で、更に喜んじゃってさぁ」

私は真矢子のことを、親としてこれ程に愛していた。それを、私は恥ずかしがって認めていなかった。

「ごめんね、お母さん」

真矢子は私の目を見て、震える唇から、震える声で、小さな声で聞いた。

「紬・・・今、なんて・・・なんて言ったの?」

私は口を覆い、けれどもう恥ずかしがることもないと思うと、両手で真矢子を抱きしめ、しっかりと耳元で囁いた。

「本当にごめんね、お母さん」

私は精一杯の力で真矢子を抱きしめると、今度は真矢子が抱き返してくれた。まるで赤ちゃんを抱っこするみたいに、優しく、けれど力を込めて。

「紬・・・やっと、私を母親だと認めてくれたのね」

本当はもっと前から、真矢子のことを母親として見ていた。けれど、どうも反抗期の私は素直になれずにぶち当たっていた。

「私の、大切なお母さんじゃない?」

まるで私が死んでしまったみたいに、わんわんと泣き、離そうとしない真矢子の背を、私はゆっくりと擦ってあげた。これまでの痛みを、和らげるかのように。

絆~Tumugi~・・・6話。

 目覚まし時計に気付いて起きた時には、真矢子の姿はもうなかった。テーブルの上には、おにぎりが2個置いてあるだけで、伝言メモはなかった。今日は日曜日だ、っていうのに、何処に出掛けたんだろう?仕事の鞄は置きっぱなしだから、遊びに出掛けたのか?真矢子は仕事以外の用事で出掛ける時、必ず私を連れていく。彼女なりに心配しているんだろうし、私も文句は言わなかった。珍しいこともあるものだ、と思った時、外から騒がしい音が聞こえてきた。

『どうせ子供が鬼ごっこでもしているんだろう』なんてのん気な想像をしていたら、近所迷惑とも言える位の大声がわあっと響いてきた。これには私も黙っていられない。

 鍵を掛けるのも忘れて外へ飛び出すと、真矢子と葉留樹の姿が見えた。目を真っ赤にして何度も殴り合いをしている。真矢子は手加減なくボコボコと葉留樹の頬や頭を殴り、葉留樹も負けずに真矢子の髪を引っ張ったり、顔面を叩いた。

「やめて!」

私は二人の間に割って入り、引き止めた。すると真矢子は、私を両手で突き飛ばした。

「邪魔しないで!気が済むまで殴らないと、気分が悪いわ!」

私は怒り狂った真矢子に恐怖を覚え、倒れた姿勢のまま、葉留樹に問いただした。

「ねぇ・・・一体何があったの?どうしてそんなに怒ってるのよ!」

葉留樹が答えるまでもなく、真矢子が答えた。

何度も何度も葉留樹の頬をビンタしている。

「この男が、紬を殺そうとしたんでしょ?紬の服を洗濯しようとしたら、この男の香水の匂いがしたわ!信じられない!最低よ!こんな男、私が殺してやる!」

背丈は葉留樹に劣るが、力は真矢子の方が倍だった。吐血し、顔中にかすり傷をつけながら殴られている葉留樹は、今にも倒れそうな程痛々しい表情をしていた。

「やめて!真矢子・・・やめてっ!」 

私は葉留樹を庇い、真矢子の両手を強く抑えた。頬をビンタされた拍子に、ふさがったばかりの頬の傷ががっぱりと開いた。

「紬・・・どうして庇うのよ。その男は貴方を殺そうとしてたのよ?未遂で助かったものの、私の、命よりも大切な娘を傷つけたのよ!許せることじゃないわ!」

 私は真矢子から視線を外し、葉留樹の方へ向くと目を閉じた。小さく閉じた目先には、暗闇しか映っていない。そんな小さな私に向かって、真矢子は哀しそうに呟いた。

「ねぇ、紬。貴方おかしいわ。その男が怖くないの?」

私は目を開けて、真矢子の言葉を跳ね返す様に、葉留樹に頼んだ。

「ナイフ、まだ持ってるんでしょ?私に向けて」

葉留樹は震えるその手で、懐からナイフを取り出すと、私に向けた。私はまるで花を捥ぎ取るかのように、ナイフを奪い取った。

「何をする気だ」

冷や汗をかき、震える声で尋ねられると、自分の企みが透明に透き通って見られてるみたいで、気分が悪くなった。

「私がいなくなれば、全てが解決するわ」

左手首にナイフの刃先をあて、ふうっと息を吸い込むと、手に自然と力がこもってきた。

「紬・・・お前、まさか・・・!」

私はギリギリと手首を傷つけた。真っ白だった手首が、傷つけば傷つく程、血で真っ赤に染まっていく。痛さの余り涙が零れ、自然と意識が遠のいていくのがわかった。

後悔はしてない。

これで、やっと、楽になれた。

絆~Tumugi~・・・5話。

「お前は本当に真矢子の娘なのか?」

両肩をがっしりと押さえて問う葉留樹は、本当の答えを求めているようだった。私はその手を振り払った。

「私にまで嫉妬しないで」

質問に答えることなどできなかった。どちらを答えてもいけないような気がしたからだ。「何故認めないんだ!真矢子はお前の実の母親で、お前は真矢子の・・・たった一人の娘だろ?何を迷っているんだ!それでも家族なのかよ!」

頬に流れた涙をぐっと拭った。まるで海水がかかったかのように、ピリピリと脈打つ痛さだ。本当に泣きたいのは、私の方なのに。

「真矢子さんのこと、一度でも『お母さん』て呼んだことあるか?」

葉留樹に言われて初めて気付いた。私は、心で思っていても、声に出して『お母さん』と呼んだことがない。一人の女の人として『真矢子』と呼んできた。それなのに真矢子は、にっこり笑って受け入れていた。怒ることも、青ざめることもなかった。

それが真矢子の受け入れ方だったんだろう。

『変わった人だな』と思う度、胃がムカムカしてくる。真矢子の素直な心が見えなかったから・・・。

「呼んでやれよ。喜ぶだろうし!」

葉留樹はナイフをハンカチで包むと、さっさと家に帰ってしまった。頬の消えない傷と、嫉妬心だけが私をじわじわと痛ませた。真矢子はこんなに大事にされている。葉留樹にとって真矢子は『割れもの』のような存在。壊れやすいものを温かく守るのが、真矢子への接し方。それに比べて、私は真矢子に近付く為のほんの一部でしかない。だからだろうか?

・・・私も嫉妬しちゃうよ?

届くはずのない思いを、風に流してしまいたかった。この冷たい風の中に閉じ込めて、ガチガチに凍らせてしまいたかった。

 

 その日の夜中、頬が引っ張られるような感覚がして、私は目を覚ました。明るい部屋の中で、真矢子が震えている。手に包帯を持ったまま、私の顔をぐるぐると包帯巻きにしていた。私は真矢子の手を止め、包帯を全て取ると洗面台の鏡を覗き込んだ。消毒液の黄色い痕と、薄いガーゼがぐちゃぐちゃに貼られているのが見えた。きっと動揺していたんだ。「誰に傷つけられたの?女の顔に傷をつけるなんて、最低な人もいるのね。紬を守ってあげなきゃいけないのは、私なのにね・・・」

ぐちゃぐちゃに貼ってあったガーゼを貼り直し、涙を流した。二十四時間も目を離さずに見守ってあげることなんか、真矢子には百パーセント無理なのに!

「・・・心配、してんの?」

私が呆然となって聞くと、真矢子は狂ったように大泣きし、私を抱き締めて離さなかった。まるで大きな子供だ。

「心配するに決まってるじゃない!帰ってきたと思ったら、紬が頬から血を流してたのよ。

・・・失神、するかと思ったんだからっ!」

真矢子が自分をどれだけ心配していたのか、今日はっきりわかったところだ。それなのに、この赤髪の真矢子を『お母さん』と呼べない自分が、ひどく憎かった。鬼のような赤い目をした真矢子は、説得するように言い聞かせた。

「私に秘密をつくらないで!」

胸がズキズキと脈打つように痛み、心に咲いていたちいさな蕾が、そのまま枯れていくように感じた。

・・・私は、葉留樹の願いも、真矢子との約束も全て『無』に変えてしまうんだ・・・。

「もうこんなことしないで!」

強気な女を泣かせてしまった。ドラマとかでよく見かけたことがあるけど、この人も同じような心情なんだろう。

「学校の先生にも連絡しておくから。娘が殺されかけた!って。お願いだから『真矢子』の言うことを聞いてよ!」

『パニック症』って奴だろうか?今の真矢子は何を言っても聞こえないような気がした。電話のプッシュ音で、警察にかけているとわかると、私は必死になってそれを止めた。

「何やってるのさ!」

なんとか受話器を置けたものの、暴れたまま落ち着こうとしない真矢子は、テーブルの上の花瓶を落としてしまった。耳が破れてしまいそうな音がして、床の上に小さな花弁が散っていく。赤と白の花弁が、互い互いにひらひらと落ちていく様は、美しくもあったが無残でもあった。

「誰に傷つけられたんだよ!」

怒りを抑えきれない真矢子は、今度は泣くこともなく問うた。

「・・・・・・」

今ここで言ってしまえば、何も隠さずにすむ。けれど逆にそうしてしまえば、葉留樹は動くだろう。確実に・・・・・・。

「私は大丈夫だから。真矢子が心配が心配することじゃないよ」

私が作った冷たい空気が悶々と流れていく。真矢子はもう何も言わなかった。怒ることも、追求することもなかった。私が残した大きな秘密を放ったまま、布団の中にもぐってしまった。もし加害者が葉留樹以外の人だったら、私は迷うことなく告げただろう。学校の先生にも保護者会にも、言えるだけ言って思い李泣いてやるさ!でも、加害者が葉留樹である限り、私はどうすることもできない。原因は全て私にあるんだから・・・。

・・・産まれて来なければ良かった!

この、真矢子を一番困らせる言葉を、私は眠りにつくまでずっと想っていた。

・・・私が欲しいものなんか、何もないよ。

 

絆~Tumugi~・・・4話。

 私も用がなくなったから、おとなしく教室に戻ることにした。ざわめいた教室の中、席に着くと同時に、クラスの人達に囲まれた。

「青葉と何があったの?」

「何って・・・」

「かなり真剣そうな顔だったじゃない!」

「まぁ、そうだけど・・・」

「悩みあるなら聞くよ?同じクラスなんだし」

「悩みとかじゃなくて!」

私は手を振り払い、すうっと深呼吸した。周りの目が一瞬にして変わり、恐れるような目つきでじっと見つめてくる。私はそれを気にせず、周りを一回、二回と視野に入れた。

「ごめん。この話はどうしてもできないの。悩みとか、そういうのじゃないから」

一限目の予鈴が鳴り、周りはガヤガヤと文句を言いながら着席した。私はそれを気にせず、静かに着席した。一限目が真理子の授業だ、なんて気付いてから動揺して、彼女が入ってきてからは余計に動揺してた。一体、真理子と真矢子はそんな関係があるのだろう?なんて考えてたら、頭の中が想像の世界で満たされていくんだから!そんな感じで、それからずっと帰りのホームルームまで、そのことばかり考えていた。真理子のあのぴしゃりとした態度を見てたら、仲の良い関係ではない!なんて風に思う。険悪な仲なのかもしれない。きっと仕事関係か何かで、トラブルを起こしたんだろう。この予想が外れているとしたら、私には何の予想もできない。怖くて・・・予想なんかしたくないから・・・・・・。

ホームルームが終わった後、ザワザワとした雑音の中、私は教室を後にした。私がいなくなった後の教室は、さっきよりもざわめいていた。きっと皆、真理子と私が話していたことについて考えてるんだろう。私は逃げるようにして学校を出た。

空から小さな粉雪が舞って、頭の上にふわりと降りてきた。ゆっくりと手を伸ばすと、手袋の上から雪の冷たい感触が残った。コンクリートは氷で固まり、滑りやすくなっている。屋根の下にはつららができ、それは目を追うごとに白く固くなっていった。空に太陽の日差しが差すことはなかったから、私は小さな光を求めていたのかもしれない・・・。家の近くにある、少し影になっている公園で、私は二倍ある背、黒いぶかぶかのジャケットを着て立っているその人は、思ったとおり、葉留樹だった。

「おかえり、紬!」

『ただいま』って言いかけたそのとき、私ははっとした。

・・・どうして?葉留樹、今日は確か予定が入っていたのに。この時間帯にこんな場所にいるなんて、おかしい・・・。

嫌な予感がして、私は葉留樹から離れた。それなのに彼は、怖い目をしながら近付いてくる。震える私の肩をがっしりと掴み、一瞬、目が合ったかと思うと、彼は乱暴なキスをしてきた。その強いと熱さのあまり、私は気絶してしまいそうだった。この黒い瞳を閉じそうになった時、白い光が目の前で走ったから、はっきりと目を覚ました。今も光っているその『もの』は・・・果物ナイフだった。太陽の光を反射して、ギラギラと怪しく輝いている。逃げ出す余裕もなく、ほんの少しだけ後ろへ下がり、彼もまた前へ一歩進んだ。

「私を殺してどうする気?」

また一歩、二歩と恐れるように下がる。彼はナイフを持った腕を真っ直ぐにし、恐れることなく近付いてくる。

「お前がいなくなれば、俺の悩みは消える」

彼の茶色がかった瞳に、私は吸い込まれるように押し寄せられた。ナイフが頬に当たったときの、この冷たい感触が・・・私を狂わせていった。

「境を養子として迎えるなんて、俺は反対だ」

彼の話しによると、真矢子は彼にある程度のことは話していたらしい。アオバキョウ、って男がいつも夜中に現れては「泊めてくれ!」なんて生意気に頼んでくるんだ!って。葉留樹がそれに激怒して、「夜回りをするか?」とまで考えていたらしい。現に一度、偶然ここで会って話をしたそうだ。養子の件を聞いて駆け付けた葉留樹だが、彼が激怒した一番の理由は、境が真矢子を求めていたからだ。所詮、十五歳と十七歳の年齢差なんて、どんなに大人ぶっても埋まりはしない。それに真矢子は年下に興味がなかった。見かけによらず、真矢子は寂しがり屋だったからだ。守りたい気持ちよりも、甘えたい気持ちの方が強かった。彼女の心の中曰く、『年下=頼りない!』のイメージがあったのだ。だから葉留樹や境には、悪いようだが『男』として見ることはできなかった。それでも『俺は真矢子が好きだ。あの家庭の中で暮らしたい。真矢子がいるなら、俺は幸せだ』って決心した境のワガママを、葉留樹は黙って見ていられなかった。自分も同じように真矢子を愛し、彼女の元で暮らすことを夢見ていたからだ。

「私は貴方の嫉妬心を聞いている程の暇はないの!そんなことを言いたいのなら、真矢子自身に言ってよ!」

自分がどんな状況にいるのかは、嫌という程わかっていた。頬に当たっているナイフの、冷たい感覚も変わらない。私の怒りは爆発した。言い残したことはない。葉留樹の手に、さっきよりも強い力がこもっていく。ナイフが頬にぐさりと刺さり、血液がぽたぽたと落ちていった。地面をよく見てみると、他の液体が落ちてくるのが見えた。それはまるで氷が溶け出した瞬間の水のような、澄んだ涙だった。

絆~Tumugi~・・・3話。

 私は玄関のドアをパタンと閉めて、深く溜息をついた。ドアを背にしゃがみ込むと、ついさっき投げてた煙草の灰が、黒く無残に残っていた。かすかに残っている、境の香水の臭いと、煙草の臭い。雨が入ってきたせいで、広がり混じり合っている。私は靴を脱いで、目の前のドアをそっと開けた。真矢子はまだ熟睡していた。スースーと可愛らしい寝息をたて、ソファーの中に身体を埋めて眠っている姿は、とても愛らしかった。眺めているうちに欠伸が出たから、私は真矢子の上に毛布を掛け、自分のベッドに潜り込み、眠りについた。

 

 翌朝、私がベッドから起き上がった時には、真矢子はいなかった。毛布はソファーの上に綺麗にたたんで置いてあり、その上に白い紙があるのを見つけた。どうやら伝言が書いてあるらしく、私はそれを取ってじっと見つめて読んだ。

『今日は帰りが遅くなるから。ご飯しっかり食べて、鍵掛けるの忘れないでね。あ、昨日は毛布ありがとう。優しい娘を持って、すごく幸せだよ。じゃあ、仕事行ってきます!

                真矢子』

有り得ない話だけれど、もしこの家から、いつか私がいなくなったら、真矢子はどんな顔をするだろうか?結婚して、子供ができて、新たな生活を送る日がもし来たら・・・真矢子は一人ぼっちになる。そうなったらきっと、葉留樹は動き出すだろうし、親戚も黙ってはいられなくなるだろう。先のことを考える度、不安に陥ってしまう。高校生のこの時期は、何と表したらいいのだろう?『不安』を抱えて落ち込んだり、ついには何も悪くない自分を責めてみたり。そうやって本当に成長していってるんだろうか?私は冷蔵庫からグレープフルーツを取り出して、包丁でスパッ!と二つに切った。そしてそのまま、がぶがぶとかじりつく。甘酸っぱい果実が、口いっぱいに広がる。時々、強い酸味が広がっていたから、その度ぎゅっと目を閉じた。

・・・まるで、私みたいだな。

未熟で、傷つきやすくて、時々ピリピリと強い酸味が走る・・・私そっくりだ。未熟な果実が口の中で弾けると、自然と涙が零れた。

・・・私は何故こんなに傷つきやすいの?

情けなかった。もっと強くなりたかった。残ったグレープフルーツの皮を台所に捨て、顔を洗い準備を始めた。髪をとかし、歯を磨いて制服に着替える。腕時計で時間を確認すると、急いで学校へと向かった。時計の針は既に八時を回っていた。学校までの距離は、家から歩いて三十分程かかる。学校の鐘が鳴るのは八時二十分だから、当然走らないと間に合わない。いつもならゆっくり歩いていけるのに、今日に限っては仕方ない。黒のローファーで地面を思い切り蹴って走った。土曜日に学校があるなんて、ついてない・・・全く。

運が良かったのか、予鈴と共に席に着いた。ざわざわとしていた教室が、担任が来たことによって、急に静まり返った。起立!礼!なんて毎日やってるし、当たり前に過ぎないけれど、その当たり前な動作が私には無駄な時間のように思えた。白いチョークで黒板に連絡事項を書いている担任の背中は、疲れ切ったようにぐったりとしていた。目の下にはくまができ、肩まである長い髪がさらっと音を立てた。

「今日からテストが始まります。最後までしっかりと解くこと!」

伝えるときに限って、元気良さそうに振舞っている。私は淡々と続く長話を無視して、窓から景色を眺めた。まるで本当の綿のような粉雪が、ゆっくりと降り積もっていく。見ているだけで、寒くなっていくものだから、私は仕方なく担任の方を向いた。その視線は、真矢子に似ている。赤のルージュが塗らさった唇から、少しだけ言葉がもれた。

「都築さん?」

その声があまりにも真矢子そっくりだったから、私は思わず席を立った。そして我に返ると顔を赤らめ、ゆっくりと着席した。変な人だな、って思われてるな・・・きっと。担任の年齢は真矢子と同じ、おまけに身体まで同じだから、その曲がっていない、ぴっとした背筋!歩き方まで似ている。他の人よりも一歩速い。だから生徒をぐんぐんと抜かしていく先生を見ると、ムカムカした気持ちになった。真矢子も同じだ。まるで周りの目なんか気にしていないように、人と人の間を割って歩いていく。私はその度、赤髪の真矢子の背中を見た。頼りなさそうだけど、こんな母親でも「社会人」なんかになれるんだ!なんて驚いた。まぁ、それは運命だから仕方ないんだろうけど。

「都築さん!話聞いてるの?」

女って、怒らせると怖い。私は目の前に堂々と歩いてきた担任と、影だけ重なるように立った。身長は真矢子と同じ位・・・。一六六センチの、等身大のような背をしている。

「授業中も同じようなら、評価が下がって留年するんだから!せめて担任の話くらい、しっかり聞きなさい」

怒り方まで似てる。一瞬、すごい勢いで怒るけど、最後は冷めたように言うんだ。それは他人事などではなく、一緒に考えてくれてる。

「はい、ありがとうございます」

私が返事をして席に着くと、担任は顔を真っ赤にして、「変わった子ね」なんて呟いていた。周りからはクスクスと笑い声が聞こえてくる。私はそんな中、あることが頭の中で引っかかった。

・・・真理子と真矢子って、名前も似てる。

もしかして何か関係がある?・・・訳ないか。

『真矢子』は私の担任の名前だ。本名は青葉真理子。結婚して子供もいるらしい。その笑顔は、どうしても真矢子とかぶってしまう。ぱっちりと大きな目、化粧品モデルのように長いまつげ、ふっくらとした唇・・・どれをとっても似ている!ただ、真矢子は小麦色の肌をしているけれど、真理子は白い肌をしている。それに髪も違う。真矢子は赤髪のストレートだが、真理子は黒髪で軽くパーマがかかってある。二人並んだところは一度も見たことがない。私は真理子の元へ歩いていき、不満そうにぼんやりとしている彼女に話し掛けた。

「青葉先生、私の母を知っていますか?赤髪で、先生と同じ位の背で、名前は・・・」

「都築真矢子」

冷たい口調とぴしゃりとした視線を受けて、私は言い返す言葉もなく、その場に立ちつくした。しばらくの間、彼女から話してくれることを信じて待っていたが、その視線がひどく冷たかったので、その場を離れてようとした。すると彼女は私の腕をつかみ、小さな溜息をついて言った。

「一週間、時間をくれる?あと一週間経ったら、じっくり話すから。約束するわ」

私が深く頷くと、彼女は私の腕をすっと離して、何事もなかったかのように歩いていった。

絆~Tumugi~・・・2話。

 私は、恋愛には全くと言っていい程、興味がなかった。私が覚えている限り、本気で人を好きになったことはないし、『誰かを愛したい』なんて思ったこともなかった。愛なんて性欲の塊にすぎないから。人は皆、好きな人と寝たいから・・・だから付き合いなんかするんだ。そうに違いない。そうやって何度も繰り返すうちに、愛は消えて性欲だけが残る。そうやって自分自身が汚れていくのだ。だから私は恋愛が嫌いだし、結婚願望なんてものもない。それに、葉留樹は私のことをひどく憎んでいる。

『感謝しろ!』なんて言っているが、それは真矢子の娘である私に対する、深い嫉妬だと私は知っている。私が生まれてこなければ、葉留樹はずっと真矢子を好きでいたはずだ。なのに私はこの世に生まれてきた。真矢子と基の娘として。そのことを知った葉留樹は、絶望して深い傷を負ったという。真矢子に、

『おめでとう』と言えなかった苦しさは、今でも心の中に残っているであろう。だから私は『生まれてこなければ・・・』なんて思うんだ。私自身は何も悪いことなどしていない。

ただ、時々ひどい罪悪感に襲われる。不思議な夢だ。夢の中でさえも出てくる。

・・・もう、こんな気持ちになるのは嫌だ。

私には居場所がない。誰もが自分に対して優しく接してくれるのに、心を許すことができない。それなのに、人はやってくる・・・。

   ピンポーン!

玄関のインターホンが鳴った。辺りは静まり返っていて、もう夜中の十二時を回っている。

こんな時間にやってくる常識知らずには、もう参ってしまっている。運よく、真矢子はソファーの上でぐっすりと寝ているから、私はそっと玄関のドアを開けた。するとそこには、背の高い、私の従姉弟が、不満そうに煙草を吸っていた。私と目が合った瞬間、ふうっと煙を吹きかけてきたから、私は咳が止まらずに涙していた。この迷惑な従姉弟、私よりも年下で中学三年生だ。境は昔から、こうして家に押しかけてきている。『家に帰りたくない』なんて理由で、真矢子を困らせては泊まってく。だから境はほとんど家に帰ったことがないし、はっきり言ってしまえば、ここが境の家のようなものなのだ。

「こんな寒い中歩き回って、よく生きてたね。あー!家に入る時は煙草禁止って言っただろ。真矢子、煙に気付いて起きちゃうからさ」

境は耳を押さえて溜息をつくと、玄関の上に煙草を投げ、ぐりぐりと灰を潰した。初めてではない。過去に何度も同じように潰されたことがある。その証拠に、玄関には何個か黒く焼けた跡が今でも残っている。それらは全て、まるで境を表してるみたいだった。癒えぬ傷のように、濃く深く残り、消えることのないものとなっている。私は思ったんだ。彼の傷は、どんな薬や療法を得ても、治ることはないと・・・。私は彼から軽く話は聞いてる。親は離婚寸前であることを。境は両親に捨てられたも同然と考え、家に戻らない。いや、戻れないってことを。だから彼は、こうして私に甘えに来る。それが彼の出した答えらしい。都築家に養子として入りたい、と今まで何回聞かされたことか・・・!私はとんでもないと思っているし、それに第一、境は真矢子のことが大嫌いだ。夜中に自分が来たとわかると、家の中に入れるどころか、「今何時だと思ってんだよ!さっさと家に帰りなさい!」なんて言われて、家の中に一歩も入れてくれないんだから。境はただ真矢子に甘えたいだけなのにさ。まぁ、彼女の言ってることは正しいけどね。忙しくて、暇を持て余してる時間なんてないのだから、せめて少し横になる時間を頂戴!って不満そうに頼んでる。

真矢子さんも大変だよな。一人娘と二人暮らしなんてよ。俺が養子に入れば、大分楽になるだろうに・・・」

境は真矢子の支えになりたかった。基のいなくなった寂しさを、優しさで埋めてあげたいだけなのに、真矢子はいつもそれを拒否する。

境が持っている優しさを、同情としか考えられないのだろう。何も求めようとはしなかった。私も、何も求めなかった。

「養子の件については、反対に変わりないわよ。境が家に居られないのは知ってる。でも、親戚の家に同居する、って話はどうなったのよ?ここに養子として住むより、親戚の家で同居してた方が楽よ。そうは思わない?」

玄関の中が沈黙で静まり返ったと思うと、突然、天気が悪くなった。玄関のドアの向こうで、ザアザアと激しい雨の音がする。境がドアを開けたと同時に、周りが白く光り、ゴロゴロと雷が鳴った。私は恐怖感を抑えきれず に、目を閉じ、両耳をふさいだ。境は傘も差さずに帰ろうとしたから、私は慌てて止めた。すると境は激怒して、「親戚なんて御免だね!年寄りの世話なんかしてる暇があったら、ここで掃除してる方がいいさ。もう一度、考えといて」なんて言うもんだから、止めていた手を離してしまった。土砂降りの雨の中、境は何処か遠くへ消えてしまった。

絆~Tumugi~

 金曜日の夜、私はいつものように夕食の支度をしていた。学校から帰ってきて少しの疲れもとれないまま料理の支度をするのは、私の毎日の役割であり、日課だ。別に好きで始めた訳じゃない。母親は毎日のように働いている。私はその母親の一人娘である。当然、家事くらい手伝わないとならない。いつも誰がどんな風に考えたとしても、結局は全て私に回ってくる。忙しいのはわかっている。これは私のただのワガママにすぎないかもしれない。それでも思うんだ。ただ、もう少し安らげる時間が欲しいだけ。厄介なクロスワードや女性向け雑誌を読みたいとは思わない。お洒落をして夜遊びをしたいとも思わない。何も音のしない部屋で、何もしないで呆然と考える時間が欲しいだけ。時計の長針が一周する度にイライラする。気にすればする程、時を速く感じてしまう。こんなことをしている自分に、イライラしてしまう。

 そんなときに私は、ピアノに向かう。制服のまま椅子に座り、ピアノのふたをそっと開ける。見慣れた鍵盤に触れると、冷たい感触と共に堅い音がする。心の怒りを慎み、私はすぐにピアノを弾き始めた。『英雄~ポロネーズ~』は、私が唯一最後まで弾ける曲だ。強弱の激しい調、美しい旋律、その全てが好きだ。ショパンを心から尊敬している。この、何度見ても変わることのない鍵盤を使って、あんなに素敵な音楽を創り出せるのだから!ベートーベンやバッハ、リストよりも、私はショパンの曲に感動した。その彼に私は聞かせるように、いつもこの時間に弾いている。心が潤っていく・・・。

 が、その時、母が帰ってくる音がしたので私はピアノを弾くのを止め、ふたを閉めるとソファーの上に寝転んだ。ゴムのように弾む、柔らかいソファーから、買ったばかりの新品の商品の臭いがした。少し咳き込んだが、それからはクッションに顔を埋めて寝たフリをした。

「ただいま。今日の夕食は・・・」

母は、玄関の扉を開けるなり、台所に駆けつけて鍋のふたを開けた。湯気がふんわりとたち、いい匂いがした。へらでかきまぜながら、母は言った。

「シチューかぁ。最近全然食べてなかったから、食べたかったとか?」

「・・・・・・」

ピーッ!

炊飯器の音が鳴った。母はしゃもじでご飯を上手くまわし、茶碗を戸棚から二つ出してゆっくりと盛った。こんな私より、黒のスーツを着た母の方が、台所に合っていた。エプロンがなくても慣れた手つきでご飯を盛る母は、見た目は悪い社会人でも、表情は母そのものだった。濃い化粧に赤のマニキュア、黒いスーツに、母親らしい声が似合っている。ピンクのルージュが塗らさった唇から、言葉がもれた。

「紬、いつも夕飯頼んじゃってごめんね。学校帰ってきてからで疲れてるのに。基がいれば、楽だったかもしれないのに・・・」

「・・・・・・別に?もう慣れたし」

基は、母が言うには私の実の父らしい。けれど私には父の記憶がない。基は私が生まれる前に自殺し、もうこの世にはいないからだ。詳しくは聞いていない。母の口からそのことを聞くのが辛いから。悲しそうな顔をされると、自分までもが悲しくなるから・・・。それから一瞬の沈黙があった後、ソファーの上の絵をちらっと見ながら、私はそのまま寝転がり、台所の母はシチューをお碗に盛っていた。全てテーブルに運び終わったとわかると、私は隅の椅子に座って素早く食べ始めた。食べる、と言うよりは飲み込む、と言った方が正しいかもしれない。母はそんな私を黙って見ていた。人参、じゃがいも、玉ねぎ、肉、全てじっくり煮込んであった。

『美味しい!』

母の目がそう言っている。

野菜のかさは普段より綺麗に取れたし、味も丁度良い。だけど少し作りすぎてしまった。四人家族どころか、二人家族なのに、とても食べきれる量ではない。大雑把に作ってしまったせいだろう。

「隣の峰島さん家に、少し置いてきたら?残りは明日の朝にでも食べればいいし」

母は鍋をちらっと見、考えてから言った。私は軽く頷いて、椅子から立つと食器を台所に下げて、それからシチューを小鍋に盛った。温かいうちに持っていこう、と小走りで玄関を出て行った。外は気温が急に下がったようで、足元が震えていた。少し積もった雪の上を、転ばぬようにと歩きながら、隣の家まで行った。玄関のインターホンを押すと、聞き慣れた低い声がして、中からその人は出てきた。

「紬!やっぱりお前だったか。この時間帯に来たってことは・・・今日の夕飯か!」

峰島葉留樹は、高校時代からずっと一人暮らしをしている。二十一の『大人』を強調しているようだ。

その『大人顔』で、また私に話し掛けてきた。

「真矢子のこと、嫌いなのか?」

私はすぐに小鍋を渡し、睨みつけた。真矢子は私の実の母の名前だ。葉留樹の口からその名前がこぼれる度、イライラしてたまらない。 葉留樹の顔を叩いてしまいそうだった。しかし、葉留樹はすぐに私の手をつかみ、

「悪かった、ごめん」

なんて言い出したものだから、私はその気持ちを無理矢理抑えなければならなかった。

『今でも昔の「真矢子」を忘れられない』

彼の顔を見ればすぐに分かった。私はそんな彼に対して嫌気が差したのを、確かに感じた。

それとほぼ同時に、子供と大人で区切られたような、小さな境界線が見えた。目には見えない、しかし、しっかりと区切られた境界線が。ふと思ったことがある。私と彼の間だけでなく、彼と「真矢子」の間にもきっと、境界線が存在するのではないか、と。果たして本当にそうだろうか?いや、そうであって欲しい。何故か分からないけど、心が落ち着かないんだ。峰島葉留樹と都築真矢子が、仲良さそうに話してるところなんて、見たくないんだ。「真矢子」の名字が、旧姓の「王城」だったときは、もっとよく話していたと言う。

私がまだ、「真矢子」のお腹の中にいた時の話だ。今はどう思っているのだろう?

『真矢子、俺のことなんかただのガキとしか思ってないんだろうな。これでも俺はもう大人で、結婚でもなんでもできるのにな』

葉留樹の、一瞬俯いた目がそう言っていた。今まで散々に言われてきたことがある。

『感謝しろ!』と。まだたった十六歳で、ずっと一人で寂しい思いをしながら、私を育ててきたと言う。考えてみれば、大変なことだ。

十六歳で子供を育て始めて、周りからいろいろと悪口が来るだろうに、知らん顔をしてきた。大嫌いな両親を何度も説得していたらしい。赤いメッシュの入った髪、左右二つずつのピアス、濃度の高い香水・・・外見だけ見れば、母親失格だ。そんな「真矢子」が、大嫌いだった。

「私、いない方がいいんじゃないの?私が生まれてこなければ、あんたは真矢子とうまくいってたんでしょ!」

つい、本音が出てしまった。なんて最低なことを言ってしまったんだろう。私はひどく後悔していた。両手で口を覆い、視線を逸らして黙るだけ・・・。怒られると思って震えていたが、葉留樹は怒らなかった。

「寒くなってきたから、早く家帰れよ」

すっかり冷えた小鍋を片手に、葉留樹は家に入ってしまった。小さな粉雪が、あとからあとから降っては積もっていく。砕け散った心の破片が、ガラスみたいに飛んでは積もっていく。それは長い長い冬の始まりであり、心が不安に陥る時期でもあった・・・。

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