押井氏がアニメ製作で一貫して考えているのは、演出は映画的センスを反映させたいというものです。アニメーションだけでなく、色々な映画で蓄積されてきた映画的センスを出していきたい、というものです。それからキャラクターの描き方。男が男、女が女であるためには男と女の会話やからみが必要と考えているようです。
ラピュタなら、パズーがパズーであるためにはシータが必要になる。自分が英雄的にならなくちゃ、自分を強くしないと、一生懸命がんばろう、という感じになる。女のこの方もそういう男に会わない限り、自分を確認できなかったり。まぁ言葉使いの悪い女でも男の前では変わる、見たいなものかもしれない。それが裏表があると捉えるのではなく、女というものをその言葉使いの悪い子がどう考えているかというのが現れただけに過ぎない。それが自分を確認するという事だと思います。
続く・・・かな(藁
ラピュタなら、パズーがパズーであるためにはシータが必要になる。自分が英雄的にならなくちゃ、自分を強くしないと、一生懸命がんばろう、という感じになる。女のこの方もそういう男に会わない限り、自分を確認できなかったり。まぁ言葉使いの悪い女でも男の前では変わる、見たいなものかもしれない。それが裏表があると捉えるのではなく、女というものをその言葉使いの悪い子がどう考えているかというのが現れただけに過ぎない。それが自分を確認するという事だと思います。
続く・・・かな(藁