彼の声 -686ページ目

彼の声 2006.1.12

つまらないこだわりの中に
誰かの意識がつなぎ止められている。
文章を読み返すほどにうんざりしてきて、
仕方なくもう一度やり直さなければならなくなる。
それは些細なことでしかない。
もはや学ぶものは何もないように思われてしまうが、
それが間違いである理由を言葉で示せない。
人々は何に興味を持っているのだろう。
人それぞれで違うのではないか。
そんなことを知りたいわけもないが、
そんなこととはどんなことなのか。
どんなことでもなくそんなことでもないのだろう。
それでは何のことなのかわかりはしない。
わからないからつまらなくなる。
そんな文章を読み返すほどにうんざりしてくるか。
何をそんなに苛立っているのか。
冗談ではないと思っているのだろうか。
それほどまでに嫌気が差しているわけか。
そこからどうやって立ち直れるのだろう。
もとから立ち直るつもりなどありはしないか。
今の君に何ができるはずもない。
手も足も出はしない。
しかしそういう話ではなかったのではないか。
いったい何が目的の文章なのだろう。
人々は何を見ているのだろう。
人々ではなく君は何を見ているのか。
君の周りを取り巻いている風景の中に、
風景とは無関係な出来事が含まれていると思われる。
それはどのような出来事なのだろう。
何も見出せないと思い続けることが、
心の中に生じている空洞を想像させるらしい。
被害妄想も妄想の内なのだろう。
最悪の事態を想像することが、
それに対するいいわけを考えさせる。
いつも仕方がなかったでは済まないことかも知れない。
君はそれらの無表情の裏に何を読み取ったつもりなのか。
何か他人から馬鹿にされていると思いたいわけか。
それについてどう思われてもかまわないのではないか。
たとえ馬鹿にされようと、
それをどうすることもできないのであり、
結果的にそれに関する文章がどこかに提示されるだけだ。
そしてそんな文章を今さら読み返す気にはなれない。
だから何もかも忘れたふりをしているわけか。
何を忘れたふりをしているのか。
はたしてそれで忘れたことになるのだろうか。
何も思い出せないから忘れてしまったのかも知れない。
たぶんそこで何を予言していたわけでもないのだろう。
ただそんな気がしただけで、
今から思えばそれは大したことではなかったようだ。
しかし何を思っていたのか思い出せないのは
どうしたわけだろう。
それは想定されていた状況ではなかったのかも知れない。
出来事から意識が遠く隔たっているのかも知れない。
だからそれらの出来事について何も感じないのだろうか。
それらの内容に興味があるのではなく、
出来事からもたらされた結果を利用したいらしい。
そこから何らかの利益を得たいわけか。
とどのつまりがそういう話になってしまうようだ。
そこから先は面倒なので省略したくなってくる。
そして何事に対しても本気になれなくなってしまう。
この世の中にはくだらぬことしかないらしい。
そんなふざけた思いが
いつか打ち破られる日が来ることを期待しながらも、
期待外れの毎日にうんざりしてくるようだ。
だが誰がそんな日々を体験しているわけでもなく、
それらの文章は誰でもない誰かに関する内容でしかない。
要するにそれらのすべてはフィクションなのか。
そんな文章を記している当人には、
何のことやらさっぱりわからず、
そこに生じている不可解な事態を理解できないらしい。
それは誰を納得させるための文章でもなく、
他者によるどんな理解も期待していないのかも知れない。
その程度の内容を理解してほしくないのだろうか。
まったく勘違いにも程があるか。
だが誰がそこで勘違いしているのか。
君は何を勘違いしているのだろう。
別にそれほどやりたくないことを
やっているわけでもないはずか。
ただ無駄に言葉を弄しているはずもない。
たぶんその場に生じているそんな思いこそが
大きな勘違いなのかも知れない。
実際にそれを読み返してみれば、
内容を何も伴っていないことが明らかになるはずだ。
そこから遠ざかろうとすればするほど、
そんなことを述べている自身の存在に気づくことになる。
だからそこにもたらされているものは空虚しかない。
他に何も見当たらないのだから、
それは限りなく真実に近い勘違いなのだろう。
しかしそれはどういうことなのか。
やはりどういうことでもなく、
そういうことでもない。
だがそんな嘘がいつまで通用するのか。
通用してないから嘘がばればれなのではないか。

彼の声 2006.1.11

やる気を失ってから
どれほどの月日が流れたのだろう。
それは誰のやる気なのか。
またそれらの妄想はどの辺で挫折してしまったのか。
妄想とは何を指しているのか。
誰に何を尋ねているのか。
それでは話になっていないのではないか。
要するにまたつまらないことを述べているらしい。
なぜそれがおもしろいとは思わないのか。
それで奇をてらったことを述べているつもりなのか。
まだ何も述べていないのではないか。
適当に言葉を弄した後ではそんな嘘は白々しいか。
だが一方でそうではないような気もする。
まだ何もわかっていないのかも知れない。
君は何も持ち合わせていないようだ。
そこには何もありはしない。
それはいつもの決まり文句でしかない。
君には何もわからないだろう。
何かが葬り去られようとしている。
何もやらなくても消え去ってしまうわけか。
君はそこで何を目指しているのか。
霊柩車で運ばれている死体がよみがえるわけがない。
棺桶の中身は空っぽのままだ。
なぜ話の中身を作り出せないのか。
無から有を創造することは不可能だ。
そこにはもとから何かがあるから、
消え去る運命なのかも知れない。
意識が消え去り、
次いで身体も消失する。
感情など制御できなくてもかまわない。
もとから何もないのだから、
猜疑心などが生まれる余地もない。
それはただの矛盾でしかないようだ。
これ以上大げさなことは述べられない。
それの何が大げさに思われるのだろう。
君の死体はどこへ行ってしまったのか。
生きているのに死体も何もあったものではないか。
死に神は架空の魂などほしくないのかも知れない。
心も体も存在しないのに、
そこに君がいるはずもないか。
そして何を語っているのでもないらしいが、
なぜそんなことを語らなければならないのか。
もう飽きているのだろうか。
何も語っていないのに何を語っていることになるのだろう。
すべてを求めることはできない。
すべての内容を知らないのにすべてはないだろう。
どこで邪魔が入っているわけでもない。
邪魔が入らないとやる気にならないのか。
それも必然的に陥っている矛盾かも知れない。
この世界から何の刺激も受けないならば、
何もやる気が起きないのは当然のことだ。
だから困っているのではないか。
何に困っているわけでもなく、
何不自由なく困っていないから困ってしまうわけだ。
何かに困っていないと気が済まないのだろうか。
それはつまらない逆説だろうか。
だから無から有を生じさせようとしているのかも知れず、
何もないのに何かがあるように見せかけたいのだろう。
要するに見栄を張っているわけだ。
たわいないことを述べているらしい。
何を嫌っているのでもなく、
何を好んでいるわけでもない。
何かをやるきっかけを見失い、
気力を削がれて死んでいるのかも知れない。
だがそこで誰が死んでいるのかわからない。
誰も死んでいないわけでもないだろう。
しかし誰が死ぬ理由もない。
ではなぜ君は死なないつもりなのか。
文章の中で安易に死という言葉を多用しているだけのようだ。
別に他意はない。
不明確な語り方で誰かの意識をごまかしている。
いつまでもそんな馬鹿話にはつき合っていられないか。
たぶん誇大妄想的な話にはリアリティを感じないのだろう。
それは誰の心象風景でもないが、
それ以外に何も残っていないのかも知れない。
そして説明が足りないようだ。
何を説明しているのでもないとさえ思うようになる。
だから呆れられてしまうのか。
はじめから間が抜けているのだから、
何もわざと被害妄想を装うこともないだろう。
まだリラックスしきれていないらしい。
完全にそうなる必要も感じられない。
何か適当な緊張感が必要だろうか。
誰かの思いはどこにも届かない。
届いているのは意味不明な言葉の連なりだけのようだ。
それは何の代わりでもなく、
それ自身がすべてを言い表している。
要するに存在そのものなのかも知れない。
何の意味も伴わずに
言葉の存在そのものが顕現しているのだろう。
またそんなでまかせを述べているらしいが、
それが真実だとはとても思えない。
それは話の内容がもともとフィクションなのだから
当然のことだ。
要するに君はいつまで経っても
そこから遠ざかれないわけだ。
遠ざかろうとすると、
視界からすべてが消え去り、
何を述べていいのかわからなくなってしまうらしい。
そして途方に暮れていると、
虚無の方から助け船をよこして、
いったんそれに応じてしまうと、
何やらわけのわからない言葉の連なりを
記すことになるようだ。

彼の声 2006.1.10

何となくまた間違ったことを述べてみたくなる。
例えば映画のどこが夢なのか。
平面上を人影がうごめき回ることの
どこにおもしろみがあるのだろう。
冗談で何かを述べているらしい。
たぶんそこには込み入った話が
語られているのかも知れない。
言葉は音声となって空間を伝わってくる。
その時君は可視光を見ているはずだ。
紫外線や赤外線を見ることはできない。
だが別に日本経済がどうのこうの述べることに
気恥ずかしさを覚えているわけでもあるまい。
わざと文章を不連続に構成しているようだが、
それでは毎度おなじみの意味不明だろう。
だがそうなることが
はじめからわかっていたわけでもないらしい。
気休めに突飛なことを述べているわけでもない。
君の言動には余裕が感じられない。
どことなくぎこちない言葉遣いに感じられ、
絶えず焦りながら言葉を発しているような気がしてならない。
そこには読む気がしなくなるような馬鹿らしさが認められる。
そこでやる気を失っているのははたして君なのだろうか。
興味はどこを向いているのか。
今の気分について何か気の利いたことを述べられるだろうか。
今のことを語っているわけでもなく、
少し前の気分について述べているのかも知れない。
枯れてひからびた樹木は何も語りかけないものか。
誰に向かって語っているわけでもなく、
その場を覆っている虚無からも無視されているらしい。
他人がどうあれ、自
分に関して何も語ることがないのだとすれば、
それはどのような状況に陥っていることになるのか。
別に謎解きを行っているわけでもなく、
どんな推理を働かせているわけでもない。
ただ話の中身が何もないだけか。
なぜ他の話の中には出来事が含まれているのか。
他の話とは何を指すのか。
そうやって無駄に言葉を弄しながらも、
じわじわと何かの核心に近づいているのかも知れない。
どこで話が途切れてしまったのだろうか。
そこにはどんな思惑が渦巻いているのだろう。
誰かがその辺でおかしくなる。
別に精神に支障を来すような内容でもないだろう。
それもほんの冗談のつもりらしく、
でたらめに言葉を並べているような雰囲気を
醸し出したいだけなのかも知れない。
どんな話が語られているわけでもなく、
何を述べているわけでもない。
そしてそれによって何を否定しているわけでもない。
それは文章以前の文章でしかないのかも知れず、
その中でどんな主張が述べられているわけでもない。
しかしそう述べることによって
何を否定しているつもりなのか。
ただ人の意識が空間や導線や光ファイバーの中を行き交い、
その身体も電車や車や飛行機や船に乗せられて移動している。
それについて何を思えばいいのか。
人の歴史とは何のことなのか。
文化とは文明とは何のことなのか。
考えさせられるが考えられない。
過去から何を学ばなければならないのだろう。
なぜ世の中には教訓とかいう
どうでもいいような言い伝えが蔓延るのか。
そういうことではないような気がする。
つまらない話のねつ造すべきではないらしい。
誰かと誰かが別れたりくっついたりして、
それで話になるのだとすれば、
それはありふれたつまらない話に属することなのか。
だがたぶんそんな風にして歴史が成り立ってきたのだろう。
しかしそれの何がおもしろいのか。
そう簡単に語ればつまらなくなるだけか。
話の中に人おもしろがらせるエピソードを
ちりばめなければならない。
俄には信じられないような偶然の重なりが
人を感動させるのかも知れない。
また同情やら反感やらの感情移入を許す
出来事がなければおもしろくはない。
だがそんなありふれた話に
いつまでもつき合っていていいのだろうか。
何の進歩もないような気がする。
進歩がないからこそ馬鹿になれて、
いつまでもそんな話に
興味を持ち続けることができるのかも知れない。
ではいったんそこからずれてしまったら、
後はひたすらつまらなくなるだけか。
興味を失ったら、
そこから離れればいいことでしかない。
そんな話から距離を取っている者など
世の中にいくらでもいるはずか。
だから君もそうしなければならないわけか。
今さらそんな話を馬鹿にしている暇などありはしないはずだ。
ならば君はそこから別の話に移行しなければならないわけか。
しかし別の話とはどんな話なのか。
そこに提示されているつまらない話が
そうだと主張したいわけか。
だがそれはおもしろいだとかつまらないだとか
判断する以前の、
まったく話になっていない話なのかも知れない。

彼の声 2006.1.9

確か今から数日後には雨が降っているのではないか。
まだ過去の時空に属しているつもりなのか。
いい加減にあきらめてしまえばいいのに、
なぜこうもねばるのか。
つまらない作り話につき合っている暇はなく、
君の知ったことではないらしい。
では何に興味があるのか。
この世界の事象に興味を持つことは無理なのかも知れず、
心はすでに妄想の海の中へ沈み始めている。
そこで君という言葉は消滅してしまうのだろうか。
君はどんな人格を有しているのだろう。
すべてがうまくいかないことに関して
何か思うことはないのか。
うまくいっていないのに、
経済的には至って順調なのはどうしてなのだろう。
高望みしていないからか。
何をやってもうまくいった例しがない、
というのは嘘なのか。
そんなのはものの感じ方でしかなく、
端から見ればうまくいっているのかも知れない。
それは何に関してうまくいっていることになるのだろうか。
それも主観的な見解でしかない。
本当はそんなことはどうでもいいことでしかなく、
うまくいっていなくてもかまわないのではないか。
感覚的にはどこにもこだわりが見当たらない状態らしい。
意識がそこで途切れている。
そこから先へ進めないようだ。
疲れているのだろうか。
そんないいわけは通用しないだろう。
記憶が失われているのかも知れない。
それはただの記憶ではなく歴史認識ではないのか。
過去の歴史を忘れているつもりらしい。
迷っているようだ。
だが何を迷っているのかわからない。
何もかも忘れてしまってもかまわないのではないか。
しかし忘却作用を意識的に操作することなど
できはしないだろう。
何もしなくても忘れる時は忘れてしまう。
その時何を忘れてしまったのかなんて覚えていない。
過去の何が問題だったのか。
何を信仰していたのか。
書物はすべて過去の残骸か。
それは君が思っていることではない。
そしてそれは思い出せないこととは無関係だ。
それはなぜだろう。
まったく疑問の余地はない。
それを認めなければならないようだ。
だが何を認めたつもりになっているのか。
何もできないことを認めなければならない。
もはや手も足も出ない。
その代わりに言葉を出しているつもりらしいが、
やはりそれで何を述べているのでもないらしい。
なぜ何も述べられないのか。
その理由は現時点では知り得ないことではないのか。
理由があって何も述べられないわけでもない。
だが理由も意味もないわけではない。
目標がないのかも知れない。
何もやる気が起こらないが、
何もやっていないわけではない。
ただ仕事に勤しんでいるだけか。
それが仕事なのだから仕方がない。
それがすべてではないような気がするのだが、
たぶんそれがすべてでもかまわないのだろう。
馬鹿げているとは思えない。
当たり前のことなのかも知れない。
やって当たり前のことを
やっているだけなのかも知れない。
それで何か困ることでもあるのか。
何も困らないから困っているのかも知れない。
それはどういうことなのだろう。
やっていることに幻想を抱けないということか。
夢とは何だろう。
夢を抱いて何を勘違いしたいのか。
何におもしろがらなければならないのか。
娯楽がおもしろいと思うか。
ただテレビを見ているだけではつまらないか。
刺激はどこからやってくるのだろう。
何がそこでの感性なのか。
例えば芸術作品と見るのと、
それの制作に使われた道具を見るのとでは、
どちらが感性に刺激を受けるだろうか。
あるいは実際にそれらの道具を使って
芸術作品を制作した人物を見れば感動するだろうか。
君が何に感動しているのかわからない。
そしてそれは何のための問答でもないような気がする。
そこで何をやっているわけでもないような気がする。
君は何と戯れているのだろう。
何がそこで繰り広げられているのか。
人々は何もやっていないような気がする。
まだ何も結果に結びついていないようで、
答えは何も出ていないように思われる。
意図的に答えが出てしまうのを避けているのか。
目の前に答えが突きつけられるのを恐れているわけか。
有無も言わさぬ状況になってしまうのを避けているわけか。
だがそれで何がわかるのだろう。
答えが出ているのに何もわからないのでは話にならない。
それは答えではなくなってしまうだろう。
ならばいったいそれは何なのか。
まさか答えが問いに転化されるわけでもあるまい。
歴史上毎度のことにように繰り返されてきた
その手の見え透いた予定調和にはうんざりしているはずか。

彼の声 2006.1.8

この世界には何がもたらされているのだろう。
空虚の他に何がもたらされているのか。
何もない空間がどんどん広がっているらしい。
しかしそれが真空といえるだろうか。
それらの言説では真空の定義が曖昧だ。
科学者でもないのに
真空について何を述べることができるのか。
そういう言葉を安易に使うべきではないか。
君の意識はそれらの言説からすぐにはみ出てしまうようだ。
その空虚な心は真空中には位置していないらしい。
空虚であっても、
その中には何かしら思いが残っている。
それが何でもないわけがないだろう。
その述べている内容には適当な言葉がつまっているらしく、
それを誰かは読まなければならないようだ。
それは何かの義務感からそうしているのだろうか。
まったくおもしろくないと思っているようだが、
それは空間が真空であることとどのような関係があるのか。
意味不明なこと以外は何の関係もありはしない。
そこから何を探ろうとしても無駄だろう。
何を取り返そうとしても無意味なのかも知れない。
心の空虚感をつかめるわけがない。
いくら空腹を装ってみても、
詰め込むべき言葉などどこにも見当たらない。
誰かのどん欲さは空振りに終わるしかない。
そしてそんな必然をいくら否定しても、
何がどうなるわけでもない。
では何を黙って受け入れなければならないのか。
今こそ何もないことを認めなければならないか。
そんなことはとうに認めているはずで、
今までに何度も述べてきたはずか。
だがだめ押し気味にいくら述べても、
それが嘘になってしまうのはどういうことなのだろう。
それを嘘だと見なす理由は何なのか。
その虚ろな目つきはどこから生じているのか。
また話を逸らそうとしているらしい。
それは現状を正視できない証拠か。
偶然にもたらされた言葉の正しい意味を
把握したくないのかも知れない。
だがそんなに残酷なことを述べているわけでもない。
ただつまらないと思われたくないだけか。
ならばもっと冗談を多用すべきか。
繰り出された言葉の裏側に
気味の悪いぬめりが生じているのかも知れない。
たぶんそんな表現もでまかせには違いないが、
そういう粘着質的な体質は文章にはそぐわない性質か。
とりあえず意味が流れ去り、
そこには空虚だけが残っているのかも知れない。
何を述べているのでもないと思わせたいわけか。
何かを述べている風に装うことに
失敗しているのかも知れない。
そしてそんな失敗も予定調和の内なのだろう。
何もかもが思惑通りだとは思わないが、
文章から意味がはじき出され、
何を述べているのかわからない状態しか
構成できないのだろう。
そして何を語っているのでもないらしい。
それについてのそれがどこにも存在しない。
だからそれらの文章はそれではなくなってしまう。
どうしても焦点が定まらず、
ある特定の内容に結実できずに、
絶えずどこかへ流れ去ってしまうらしい。
読むそばから消え去ってしまい、
内容がまったく記憶に残らない。
それはあり得ない文章なのだろう。
要するに君は架空の文章について述べているわけか。
もっとも君自身が架空の存在なのだから、
それは仕方のないことか。
要するにそこでは
いつもそんな予定調和の語りが繰り返されている。
そんなことではつまらなくて当然なのであって、
おもしろくするつもりもないのかも知れず、
そこには話のおもしろさには一向に無頓着な意識が
設定されているのだろうか。
だが君が何を設定しているわけでもなく、
そんな設定を誰が求めているわけでもない。
無論それが何の冗談であるわけもない。
たぶんいつものように嘘をついているだけなのだろう。
君という存在自体が嘘の塊か。
なぜ君ではなく私と言わないのか。
文章の中では誰も何も言わない。
そこにはただ言葉が記されていて、
何かが述べられているだけだ。
それで気が済まないのなら、
さらに嘘を述べ続ければいいだけでしかなく、
実際に君は自らが架空の存在であることを利用しながら、
そこに君という言葉として存在し続けている。
だが今さらそんなわかりきったことを述べてどうするのか。
どうもしないからそう述べるより仕方がないのではないか。
それ以外に君に関するどんな表現が可能なのだろう。
君が君でなければはたして私になるのだろうか。
私と君は違う言葉であり、
君はどこまでも君であり、
私もどこまでも私だ。
それが嘘だと思うなら、
それが嘘であることをどのように証明すべきなのか。
証明する気もないのにそんなことを述べるのは
欺瞞もいいところか。

彼の声 2006.1.7

たぶん何も思いつかないだろう。
今はどんな状況なのだろうか。
何について述べているのか。
これ以上は何も思い浮かばないと思っている。
この世界がどうなろうと君の知ったことではない。
知ったことではないが、
何かを知ることになるのかも知れない。
そこに張り巡らされている掟のどこかに
ほころびが生じ始めている。
掟とは何だろう。
何が定められているとも思わないが、
自由であるはずもないだろう。
語りには限りがある。
それらの語りは何に対して自由なのか。
飽くなき努力などありはしない。
努力にもいずれ飽きが来るということか。
聴いている音楽にも飽きが来る。
だがそれがどうしたというのだろう。
そこからねばり強く言葉を繰り出さなければならない。
しかし誰がそれを求めているのか。
求められていることははっきりしていない。
忘れていることや見失っている対象を
明らかにできるわけもない。
だからもっと外の世界に
目を向けなければならないだろう。
そこで何が行われているのかを
見極めなければならない。
だが君に見極められるはずがない。
別に何を見ているわけでもない。
なぜそこから降りてしまうのか。
考えることを怠っているのかも知れない。
答えなど何も導かれないからか。
どこから何を導こうとしているのか。
そこには何があると思われるのか。
考えるきっかけがあればそれで十分だろう。
では何を考えさせられているのか。
努力して報われてしまったら何も叶わない。
それでは何も叶ったことにはならないのだ。た
ぶんそこで痛い目に遭わなければならないのだろう。
何度も挫折を経験しなければならず、
不遇を耐え忍ばなければならないのだろう。
それはどういうことなのか。
君はそこで試されているわけか。
しかしそれの何が試練なのだろうか。
どんなに試練をくぐり抜けようと、
何の結果ももたらされないことを
望んでいるのではないか。
努力が徒労に終わることが楽しいわけか。
そうやって決まり文句を得ることから
脱落したいわけか。
結果を求めないとはそういうことかも知れない。
安易な成功願望はくだらない。
どうもそれでは間が抜けているような気がする。
生きているとは結果に至らないことなのかも知れない。
結果とは死を意味するのかも知れない。
しかしそうまでして生きたいわけでもない。
そうまでとはどういうことなのだろう。
要するに本気になれないということか。
それでは何のことやらさっぱりわからない。
何を述べているつもりなのか。
何も述べていないと思いたいのか。
簡単に救いを求めるわけにはいかない。
救われないことが生きている証なのかも知れず、
救われてしまったらそこで終わってしまうが、
別に終わってしまってもかまわないだろう。
終われるものならさっさと終わってほしいか。
結果に至れば終わりになるかも知れないが、
それは君の努力程度で
どうにかなるものではないのかも知れない。
君一人の力ではどうにもならないような状況の中に
身を置いているのだろう。
だからこうして
ひたすら語り続けているのかも知れないが、
それが何を述べていることにもならないとしたら、
それらの語りは徒労そのものになるだろうか。
そうなることが君の狙いなのか。
そこから予定調和的に大団円を迎えたいのか。
そんな言葉を使う意図がわからない。
ではその場面から遠ざかろうとしているのは誰なのか。
それは誰でもなく言葉でしかない。
言葉以外の何がもたらされているのだろう。
それが言葉によって示されるものなら、
それは事物ではなく、
事物の影でしかない。
語りの中で言葉は
事物の影としての役割を担っているようだが、
言葉以外に何もあり得ないのなら、
そこには事物そのものは存在し得ないのではないか。
だがそんな軽薄な哲学もどき的思考は好ましくない。
もっと簡単に述べられることでしかないだろう。
君は何について語っているつもりなのか。
そんなことを知りたいわけもなく、
それが嘘だということも知っている。
だが嘘ではない言説がどこにあるのか。
急に遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
たぶんそれが具体的な語りの内容なのだ。
しかし具体的な内容がそれだけなら詐欺もいいところだ。
ではフィクションとは何なのか。
そのすべてが詐欺の類であるはずがない。
フィクションの中でどんな真実が示されているのだろう。
そんなどうでもいいことを突き止めるつもりもなく、
今さらフィクションについて何を述べるつもりもない。

彼の声 2006.1.6

その辺が君の限界か。
たぶんそれは違うと思う。
思うことのすべてが違うような気がする。
実際には何となく煮詰まっているだけなのかも知れない。
はっきりしたことは何もわからない。
だがそんなことを述べようとしているわけではない。
すでにそんなことを述べているではないか。
では何に呆れて何を思わなくなったのか。
何も思いつかないのは誰の仕業なのか。
誰のせいでもなく君のせいでもない。
そんな風に考えるべきではないが、
君にもできることとできないことがあるらしい。
言葉が万能であるはずがない。
述べていることの意味が理解できないのは毎度のことか。
わざと理解しようとしていない。
無理に理解すべきではないのかも知れない。
それでも君はそれらの無表情のわけを知っている。
そこには感動がないらしい。
感動するような状況ではない。
いったい何に感動すればいいのか。
感動する必要のない状況の中で何を信じればいいのだろう。
たぶん何も信じられないのだろうが、
逆にそれを簡単に理解したい。
何が逆なのかわからない。
信じられない現実を信じようとするのではなく、
信じようとしない意識を理解したいようだ。
それは単にそんなややこしい心情を
ねつ造しているだけではないのか。
それの何が心情なのだろう。
君はそこから逃れたいらしい。
そんなわざとらしい言葉が渦巻いている状況が
気に入らないのだ。
何を述べているのかわからなくなる。
いったい君は何を述べているのか。
述べているのは君ではない。
君ではないと思いたい。
君はそんな成り行きに反抗しているようだが、
それで何に逆らっているのかさっぱりわからない。
逆らいつつも逆らえない状況に
追い込まれているのだろうか。
しかしそれでは何もできはしないだろう。
だが取り立てて何をやろうとしているわけでもなく、
何かをやろうとする気力が萎えているのかも知れない。
何かをやるには
それをやる機会が巡ってこなければならない。
せっかく巡ってきた機会を取り逃がしているのか。
それを感知できなければそうなるしかない。
しかしそれは誰にとっての機会なのか。
そんなことを君が知るよしもない。
過ぎ去ってしまった機会について
あれこれ推測してみても無駄だ。
無駄だからこそ
それが言葉の連なりを生じさせる原因となる。
そんなでたらめでは
何を述べていることにもならないだろう。
まだ述べている何もかもが遠すぎるのだろうか。
それに関して遠くから乾いた笑い声が響いてくる。
笑いの主は照れ隠しに意味不明を装いたいらしく、
やりたくてもやれないことについて、
適当ないいわけを考えているようだ。
何かそこから後戻りできない事情でもあるのだろうか。
後戻りして何を得られるのか。
それはよくわからないが、
また遅れが生じてきていることは確かなようだ。
語ること自体に興味をなくしているようで、
それにつられて気力もなくなってきている。
相変わらずきっかけがまったくつかめないが、
これ以上書くために工夫を凝らすことはできない。
なぜそこであきらめてしまうのか。
どうしてそうなってしまうのか。
それに対する批判の糸口を見出せない。
だがそれが解決の糸口になるのではないのか。
批判に値する現象を何も見出せなければ、
それですべてが解決するとは思わないのだろうか。
無理に批判するようなことは何もない。
しかし何かを解決させるために書いているわけではない。
本当はそんな行き詰まりの状況から逃れたいのではないか。
内容のないことを書けば書くほど、
さらに行き詰まりが深まるだけだ。
そんなわかりきっていることを
どうすることもできはしない。
だから今は行き詰まるより仕方がないのだろう。
だがそんな馬鹿げたことを
いつまでも述べ続けられるだろうか。
誰も助けてはくれないだろう。
助けてほしいとも思わないか。
誰が何を思っているわけでもなく、
文章の背後にどんな意識が存在しているわけでもない。
ただそんな風に装いたいだけで、
本当は何らかの人格を有した意識があるのかも知れないが、
それを明かしたところで何が解決するわけでもない。
そしてそんなどうにもならない現状の中でしか、
何かを述べることができないらしい。
それで楽しいのならそれでかまわないのだろう。
楽しいわけがないか。
ではそれは苦しみの産物なのか。
それとは何だろう。
空想上の意識と
そこから生じている文章がそれなのだろうか。
そんなことがあり得るわけがない。

彼の声 2006.1.5

常識はずれの理由を考えているとは思わない。
言葉の限界はどこにあるのだろう。
君は戦略を軽視している。
何をどうすれば戦略になるのか。
誰がそんな風に見せかけているのだろうか。
そこで誰と誰が戦っているわけでもない。
では何を優先すべきなのか。
それはどういうことなのだろう。
どういうことでもなく、
そういうことでもなく、
何のことやら意味不明に思われる。
それの何が戦略なのか。
ただ無意識を装っているだけではないのか。
何を意識しているのかを知りたい。
それは誰でもない誰かについて知りたいことなのか。
架空の意識は知り得ないことを知ろうとしているようだが、
それが何になるのかわからない。
君は何も求めていないことになっている。
まだ理由を思いつかないらしい。
気が長すぎるのかも知れない。
そんなことは思っていないようだが、
なぜかそんなことを述べているようだ。
思っていることと述べていることが一致しなくなっている。
しかしそれがどうしたわけでもなく、
何を述べているとも思えないような
成り行きになっているようだが、
それは虚構の成り行きなのだろうか。
現実が見えなくなっているわけか。
それはどのような現実なのだろう。
始めからやり直さなければならないのだろうか。
今さら手遅れに思われるのはなぜなのか。
まだ理由に心当たりはないらしい。
ならばもう少し具体的に述べてみたらどうか。
このままでは夜はますます深くなり、
精神的な重圧に耐えられなくなってくる。
要するに話ができすぎているのだろう。
それが退屈な気分を誘発しているらしい。
人はそんな風に動けないものだし、
演劇的な展開には何らかの思惑や意図が偶然性に勝っていて、
そこには常に不自然な話の成り行きが認められる。
それがリアリティを感じられない理由になるだろう。
しかしそんな理由で何を批判しているのかが不明のままだ。
そこで何かがうやむやのままに語られている。
そういうやり方が気に入らない。
たぶん現実には意図しない意図や無意識の思惑が介在していて、
そういう不可思議な部分から
リアリティを感じ取れるのかも知れない。
実際にそこで何を感じているかなんてわかるはずがなく、
文章となった感じていることは、
ほとんど虚構に属する実感だろう。
君の感覚はその辺で足踏みを繰り返している。
一定のわかりやすい結論へ至ることができずに、
不分明で明確さを著しく欠いた霧の中に
自らの感覚を置き忘れてきたように感じられてしまう。
要するにたわいない感覚を
大げさな言葉でまわりくどく飾り立てているのだ。
やはりそれで何を述べているのでもないと思われる。
それが勘違いだとしたら、
他に何を述べていいのかわからなくなる。
勘違いでもいいから述べておかないと、
他に述べることなどありはしないだろうが、
そんな風に述べてしまうとくだらなく思えてくる。
そしてくだらないの反対語が俄には思いつかない。
すばらしいとはどのような状態なのか。
そこにどんな驚きがあるのだろう。
何が精神に宿っているわけでもなく、
それらが何を示しているとも思えない。
生じてはすぐに消え去ってしまう一瞬の思いに
どんなすばらしさが宿っているというのか。
君の意識はそういうまわりくどい言葉には宿らない。
どこに何があるわけでもなく、
その精神が指し示している当のものは、
やはりいつもの空虚そのものなのか。
まるで出がらしの番茶のような味がしてくる。
少なくとも紅茶ではあり得ないだろう。
要するに遠回しに紅茶が飲みたくなっただけのようだ。
それ以外に何も思うところはないが、
そこにたどり着くまでに
いったいどれほど言葉を要したのか。
短い断言では嘘になってしまう。
何を言い放ってもそれは嘘になり、
そんな嘘からそれらの文章は構成されているらしく、
たわいない戯れ言の集積が
深刻な行き違いでも生じさせているのだろうか。
今そこで思っているのはそんなことでしかない。
そしてその思っていることも嘘になってしまう。
瞬く間に時が過ぎ去ってしまうようだ。
今までに何を語ってきたのか。
どうやら心の病が言葉に乗り移ったらしいが、
そんな嘘にもあまり説得力はないようで、
どうでもいいことを述べつつも、
それが何かの戦略なのだと思っているのだが、
それは誰の戦略でもなく、
どんな思惑が介在しているわけでもないのだろう。
それでうまくいくとは思っていないが、
結果的にうまくいかなくとも、
それはそれで誰にとっても仕方のないことなのかも知れない。
ただそこに複数に意識が渦巻いているだけのようだ。

彼の声 2006.1.4

何がおかしいわけでもなく、
それは誰のせいでもない。
誰の仕業でもなく、
そこで誰が何をやっているわけでもない。
仕事は仕事でしかなく労働も作業も仕事の一部なのだろう。
どうもこの世界がすべてではないらしい。
この世界において、
すべてということはあり得ないのかも知れない。
言葉が現象を捉えきれていないのか。
では今はどのような世の中なのだろう。
どんな言葉が現状にフィットしているのか。
誰かは自分を信じれば道が切り開ける
などという幻想を抱いている。
何を見ているわけでもない。
何を思っているわけでもない。
何を感じているわけでもない。
それでは何を考えているのだろう。
何も答えになっていないのではないか。
現状についてどんな言葉を当てはめてみても、
これ以上は言葉の連なりに幻想を抱くことができない。
何もやっていないのにこれ以上はないだろう。
ではこれ以上語るのはやめた方がいいのだろうか。
それが君の物語ならやめた方がいい。
やめられないのなら破滅するしかないだろう。
それ以外はあり得ない。
しかしそれで誰が破滅するわけでもなく、
誰も破滅させないようにすることが破滅そのものなのだ。
そんな嘘ではつまらないだろうか。
ではどんな嘘なら現状に適合するのか。
君が何を述べようと何がどうなるわけでもない。
それで何を説明しているのでもなく、
誰が破滅しているわけでもないらしい。
君が体験しつつある現実が破滅そのものだと思う。
虚無の深みに底はない。
たぶんそんな破滅では何とも思わないだろう。
君はこれまでにもいつも
どうにもならないところで持ちこたえてきたと思っている。
それがどのような自負に結びついているのか知らないが、
君自身はそれを理解できない。
願いはどこで成就されるのか。
すでに気がつかないところで
成就されてしまったのかも知れない。
しかし言葉が離散しているようだ。
つまらないことに腹を立てていても仕方ないか。
仕方のないところで何を述べているつもりなのか。
何かを説明していることは確かなようだが、
それだけではつまらないだろう。
だが考えることや思うことのすべてが
幻想ではないはずだ。
またすべてという言葉を使っている。
それの何が性懲りもないと感じるのだろう。
なぜそれ以上を目指しているのか。
それを超えることなどできはしないが、
何を超えようとしているのか。
そんな馬鹿げた成り行きの中に何を見ているのか。
何も見当たらないから
話の成り行きが無内容に推移しているわけだ。
だからうんざりしてくるのだろう。
そこで何を見ているわけではない。
それらのどこからどこまでが
この世界に属しているわけでもなく、
そのすべてを含めると
世界からはみ出てしまうような気がしてくる。
どこかに余分な事象があるらしいが、
その取るに足らない事象に言及できるだろうか。
君は物語の世界に入り込めずにいる。
それを読む気がしないようだ。
いつも眺めている映像にも飽きが来ている。
では聴いている音楽はどうだろう。
心はそこから遠く離れたい。
そしてそれが現実逃避だとは認めたくないらしい。
何となくおかしな雲行きになってきた。
そう感じること自体が勘違いかも知れないが、
まだそこまでたどり着いていないのかも知れない。
そことは底のことだろうか。
漢字変換に気に入らない部分でもあるわけか。
まだ眠たくなるような時間でもないはずだ。
さらにそこから離れようとしている。
無理なことを述べようとしている。
大げさな葬送曲に送られながら、
どこかの霊柩車が火葬場に向かって動き出す。
誰もそんな場面に出くわさずに、
ただ現状を淡々とやり過ごそうとしている。
僧侶の読経がどこかで響いている。
この世の無常は嘘に違いない。
平家物語等のフィクションの中でだけそうなのかも知れず、
現実の世界では常に何かを思い続けている。
なぜそれで無常観から遠ざかれるのか。
常ならざるものを認識できないわけか。
誰もがその場にとどまろうとしており、
無常観に至るのを押しとどめ、
そんな思いを心の内にしまい込もうとしている。
気が狂いたくないのかも知れない。
何もなければ気が狂うだろうか。
君にとってはそれがつまらないことのように思える。
それで急場をしのいだとは思いたくないのだろう。
唐突に馬鹿げたことを述べているだけのようだ。
意味など何もありはしない。
それで気が狂うのを回避しているわけではなく、
ただそこから遠ざかろうとしているだけのようだ。

彼の声 2006.1.3

君の目は節穴か。
誰かの意識の中では、
何か幻想的な光景を目にする機会でも巡ってきているようだが、
それについて君は何も語れない。
誰かは何を夢見ているのか。
夢の中ではどこまでも何が続いているのだろうか。
それは君の道ではない。
それらの時空では誰が何を求めているわけでもなく、
またどこに誰がいるわけでもなく、
そこで何があったか知らないが、
それからあまり話に進展はなさそうだ。
それは何の話でもないような気がするのだが、
何か気がかりなことでもあるのだろうか。
もとから何について語っているのかわからず、
そこに言葉を重ねるほど、
さらにわからなくなってきたようだ。
それらの話の何が気に入らないのだろう。
世間に対して警鐘を鳴らしているつもりの輩を、
安易に軽蔑するわけにはいかない。
君もその手の輩なのではないか。
しかしなぜそこから無責任になれないのだろう。
それこそが大きなお世話の要らぬお節介であり、
逆説的に無責任そのものなのかも知れない。
その手の言説は何に逆らっているわけでもなく、
それで何を否定しているのでもないような気がする。
メディアは常に何かを流行らそうとしている。
ひたすら騒ぎ立てたいのだ。
そこに特定の意図や思惑などありはしない。
しかしそれを見聞している君は何を思うわけでもなく、
ただ見聞きした何もかもを忘れようとして、
実際に忘れてしまうだろう。
君は忘れることによって精神的に楽になりたいのかも知れず、
忘れながらもさらにそれらの馬鹿騒ぎを眺め続けている。
理由や目的は何もない。
何を望んでいるわけでもなく、
世の中がどうなってほしいとも思わない。
だが別にそのような状況に絶望しているわけでもなく、
また何をあきらめているわけでもない。
ただそうやって要らぬ言葉を並べながら、
早く時が過ぎ去ってほしいと思っているのかも知れない。
自らが何に関心を持っているのかよくわからないようだ。
そんな風にして無責任を装いながら、
そこから先に何を述べればいいのだろうか。
近頃はどうも世の中に行き渡っている話題から
隔たっているらしい。
意識が世間の関心から遠のいているようだ。
しかし本気でそんなことを思っているわけではない。
戯れに無関心を装っているだけかも知れず、
そんな偽装に心を奪われているのだろう。
それはどういうことなのか。
本当はどんな思惑を有しているのだろうか。
何が君の狙いなのだろうか。
本心ではこの世がどうなってほしいのか。
個人の力で世の中を変えようとしているのか。
冗談としてならそんなのもありだろうが、
ただ何がどうなってほしいとも
思っていないことは確かなようだ。
自らが日頃どんな仕打ちを受けているのか
わかっていない。
いったい誰がそんなことを述べているのだろう。
そこには誰もいないのではなかったか。
そんな嘘があり得るだろうか。
では誰か適当な人物を
話の主人公に据えなければならないか。
それはおかしな成り行きだ。
実際に君が語っていることは代わり映えがしない。
たぶんそれらの世界では
同じような事件が切れ目なく起こり続け、
同じことが際限なく繰り返されているだけなのだろう。
そして人々はそんなことの繰り返しに嫌気が差している。
君はそこで何をあきらめようとしているのか。
興味を抱く対象が何も現れなくても、
それでもまだあきらめるわけにはいかないのだろうか。
いったい何をあきらめなければならないのか。
あきらめる対象まで存在していない。
あきらめるにはそれ以前に
何かをやろうとしなければならない。
ではそこから何かやらなければならないことが
導き出せるだろうか。
いったい何をやらなければならないのか。
そして何をあきらめて、
その代わりにまた何をやり始めなければならないのか。
今日もテレビ画面上では訳知り顔で何かが語られているようだ。
そんな風にして説明し見解を示さなければ、
その先へは進めないらしい。
しかしそれで君が満足するはずがなく、
何よりもそういう話の展開が気に入らないらしく、
何となくその辺で
見物している対象に対する興味を失ってしまうらしい。
話のターゲットはもっと別のところにあるのではないか。
ではそれについて
何か差し障りのない範囲で述べられるだろうか。
またどこかへ脱線しようとしているわけか。
ただそんなことを述べている現状があるらしい。