避難までの道のり①  震災当日~忍び寄る放射能 | ブログ版PB通信

避難までの道のり①  震災当日~忍び寄る放射能


前回の記事 で反響をいただき、(長い文章なのに、読んでくださった皆々様に感謝です!)

つたないながらも、また私事を書かせていただくことになりました。

スタッフKです。


どこから話したらよいか、とても悩みましたが、やはり長い話なので最初から順を追って書きたいと思います。

ということで、今回は、震災当日~忍び寄る放射能汚染について、書きます。


3月11日(金)午後2時46分 私は、三男(3歳)、祖母、祖父と自宅に居りました。

大きい揺れの時、私は、台所に、祖父は書斎に、祖母と三男は、茶の間に居て、

それぞれが動けずに、ただ、揺れを収まるのを待ちながら、声かけあうのが精いっぱいでした。

観音開き状のあらゆるキャビネットや扉や、冷蔵庫の扉までもが開閉し、食器が雪崩のように崩れ、落下してきました。


上の子2人はまだ帰宅してません。

学校に連絡しようと、受話器をとると、電話は混線していてつながりません。

外に出ようとしたとき、上の子(小学6年生)が、あわてて帰ってきました。

雪の舞う中、上着もなく、足元を見ると、上履きのままで、靴下が濡れていました。

3階の教室にいた長男は、帰りの学活中に地震がきて、机の下にもぐりこんだものの、脇にあった水槽の水が波打ち、水がかかったそうです。

水槽のガラスに当たらなくて、良かった・・・そう声かけると、

長男は

「うん。だけど、天井が落ちてきて、一番後ろだったAくんの頭は、ギリギリだった」

と青ざめながら言いました。

長男の話だと、生徒は校庭に全員避難した後、各学年毎に集団下校したそうなのですが、まだ次男は帰ってきません。


道路に出ると、次男の姿が見えました。

帽子も上着もランドセルも着用していて、一見 普段どおりに見えましたが、靴をはかずに、靴下のままでした。

「帰る途中もね、道路がぐねぐねして、ブロックが崩れてきたし、縁石が地面に埋まってて・・」

さぞかし怖かったことでしょう。

次男は途中で泣き出してしまいました。


幸い、ケガもなく帰宅した子供たちは、家の惨状をみて驚きました。

割れた食器やガラス類を踏まないように、皆 スリッパを履いて室内に入り、壁面に飾っておいた崩れ落ちた家族写真を片付けながら、2階の階段へと進みました。

2階は1階よりもひどく、窓ガラス自体が外れていて、カーテンが揺れ、雪が舞い込んでいました。

テレビは落下、子どもたちの勉強机の教科書は、皆、床に散乱し、2階にいなくてよかった、と思いました。

強い揺れは度々起こり、揺れが収まった頃合いをみて、片付けをしているうちに夕方になりました。

我が家はまだ、電気が来ていたので、明かりをともせたのですが、

道路をはさんで向かいの地区は停電になっており、信号も消え、真っ暗でした。

暗闇のなかで、渋滞した車のヘッドライトで、道路だけがどこまでもまっすぐに照らしだされていて異様な光景でした。


すると突然祖父が

「風呂に水を溜めれるだけ溜めとけ!バケツでもなんでもいいから、溜めとけ!そのうち水道が止まるぞ!ごはんも一升炊いて、にぎり飯にしろ!」

と指示を出したので、それに従いました。

祖父の予想は悲しくも現実のものとなり、水道が夜には、止まってしまいました。

その晩は、何かあったらすぐ脱出できるように、上着や帽子、手袋は枕もとにすぐおいて、服を着たまま寝ることにしました。


翌日、近くのスーパーが、駐車場で青空販売(店内は損壊が激しく入れないため)しているという情報を聞き、

子どもたちと歩いて行きました。

近所の人たち、こどもたちの友達などがたくさん集まって、皆 並んで買っていました。

店員の皆様も、ご自分の家族がいて、皆大変なはずなのに、こうしてものを売っていただけることに、本当にありがたい気持ちでいっぱいでした。

その場にいる人たちは皆、お互い、無事を確認し、大変だったと、声かけあっていました。


このときは、誰ひとり、これからが放射能との長い闘いになるとは、思ってもみませんでした。


我が家は大家族なため、お風呂に張った水も、水筒やバケツに汲んでおいた水も2~3日でなくなってしまいました。

どこのスーパーやドラッグストアへ行っても、水は売り切れていて、自販機の水も売り切れでした。

支所や学習センターで、自衛隊が給水している、との情報をきき、並ぼうとしたところ整理券番号が400番台

4時間並んで、やっと1家族あたりわずか3リットルもらえました。

(これは後日6リットルに改善されましたが、まだまだ足りないくらいでした)


この時に、放射能に対する情報は何も来ておらず、マスクもせずにいたことから、外で給水に長時間並んだ多くの人が被曝したであろうといわれています


手を洗うには、アルコールで除菌し、食器にはラップを巻いて、節水を心がけました。

それでもやはり、水は足りなくて、親戚の井戸水や、湧水を分けてもらい、みそ汁や飲み水に使用し、畑の雨水を利用した水源を食器洗いや洗濯やトイレを流すのに使用しました。

しかし、畑の雨水で外で手洗いしてみると、白い靴下は黄ばんでしまいました。

トイレを流す為に、バケツに雨水をためておくと、最初は透明だったな雨水が時間の経過とともに、銀色のものが浮上し、濁っていました。

断水も10日以上におよび、子供たちもお風呂に入っていないために、体がかゆい、と言いだしました。

畑の雨水をやかんに沸かし、お湯で体を拭いてあげると、サビくさい臭いがしましたが、子供たちは文句は言いませんでした。


水と同様に食べ物もなくなってきました。

わずかに営業しているスーパーをはしごしても、どこでも食べ物はなく、棚は空。

それなのにスナックなどの菓子などは山積みになっていました。

商品が入荷しないために、2リットルのペットボトルさえも、1家族2本まで、という制限がされました。

店の入り口から奥の壁まで、人が並び、会計するまでにも1時間、2時間待ちました。

別の店舗では、パニックを避けるために、買い物前に入場制限されて、30分毎に入場となり、入れない人は、ひたすら外で待ち続ける、という形になっていました。

空には、自衛隊のヘリコプターの集団が往来し、まるで戦地のようでした。


私の住んでいた福島市渡利というところは、福島駅、そして県庁などがあり、福島市の中心部です。

福島第一原発から60㌔離れているため、当初は、ここまで放射能がくるなどとは言われておらず、

街全体に危機感などありませんでした。

また情報もほとんど入ってきませんでした。

自給で野菜を作っている家庭も多く、物流が止まり、食べ物が入ってこないので、なおさら、皆、畑の野菜を収穫して食べていました。

その行為そのものが、内部被ばくに結びつく危険性があるということなど、誰も知りませんでした。


いつからか、放射能が福島市にも来ているという話があちこちで流れるようになり、子供たちは屋内へ留まるように、外に出ないようにと、学校から連絡が来て、家の中でもマスクをさせながら、自宅待機の日々が続きました


3月22日に予定されていた終業式は延期され、そしてそれも中止となり、卒業式も中止となり、

担任の先生が、生徒の家を一軒、一軒まわって、卒業証書を届けている様子がテレビで映しだされていました。


私も子供たちの健康が心配になり、子供たちと避難したいことを夫に伝えました。

しかし、夫の高齢の両親を置いていくのか、見放して逃げるのか、そんなに自分だけ助かりたいのか、と責められました。

新幹線駅は崩壊し、道路は通行止め、また、ガソリンが無いのに、どうやって行くつもりなのか、とも問われました。

ガソリンを求め、毎日長蛇の列が隣町の橋まで続いていました。

避難するために、出勤するために、皆、本当にガソリンが必要でした。

ガソリンスタンドには、「緊急車両専用」と看板が立てられ、そこには、囚人を護送するような車両、救急車、パトカーなどがありました。

医師は身分証明書を見せ、給油してもらっていました。

テレビでは、駅のバスターミナルにマスクをしながら、長距離バスを待つ人々が映っていました。

逃げるにも、外で長時間待たなくてはならない。

小さい赤ちゃんやこどもを手につないで待つ人々。

友人も仕事があるため、中学生と小学生の子供たちだけを会津若松まで長距離バスに乗せて避難させたようでした。


私もできることなら、せめて子供だけでも逃がしてあげたかったけれど、まだ幼い子のことを考えると、自分と離れて暮らすことには、ためらいを感じました。



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ガソリンを待つ車の渋滞




(避難までの道のり①  震災当日~忍び寄る放射能 完)




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