●ニャーナヨーガの3段階 | 日々是修行~人生の「道」を求めて

●ニャーナヨーガの3段階

お盆に入ったら雨でした。この長雨、来週まで長引きそうですので、

お墓参りをどうしようか思案中です。

 

少し前までは台風が発生しても、日本列島を直撃するのはマレで、

カスる程度で微妙に進路を変えていた様な気がするのですが、

 

ここ数年は、まるで紙に「折り目」がついたかの様に筋道が出来て、

日本列島が完全に台風の通り道になってしまったような・・。

 

さて。YOGA関係の本には必ずと言って良い程に登場する

『ヨーガ・スートラ』の8支則ですが、

 

『ヨーガ・スートラ』はハタ・ヨーガの教典ではなく、

「瞑想の教典」だと言うお話は以前にもさせて頂きました。

 

「スートラ」と「タントラ」の違いですね。

 

今日はその話はさて置き、その「8支則」ですが、

「瞑想の8ステップ」と捕えた方が、私は妥当なのかなと思います。

 

「瞑想の8段階」ということですね。

 

軽く復習しておきましょうか。(^^)

 

यम  नियम  आसन  प्राणायाम  प्रत्याहार  धारणा  ध्यान  समाधय: ,

अष्टौ  अङ्गानि ॥२.२९॥

 

①ヤマ・②ニヤマ・③アーサナ・④プラーナヤーマ・⑤プラッティヤハーラ・⑥ダーラナ―・⑦ディヤーナ・⑧サマーディ

 

これが अष्टौ अङ्गानि 「アシュタウ アンガー二」。

「8つのアンガ(枝)」だと「スートラ」では言われました。

 

「禁戒・勧戒・座法・呼吸法・制感・集中・瞑想・三昧」ですよね。

 

「瞑想の8ステップ」ですから、ここに出てくる「座法」も、

瞑想するための準備として「安定して坐る」と言う意味で、

 

その後の「呼吸法・制感」も含めて、

「禅」の「調身・調息・調心」に近いのかもしれません。

 

「瞑想の8ステップ」と考えると、

最後3つを何故「サンヤマ」と言うのかも理解しやすい気がしますし、

 

また最初に書かれている「禁戒」と「勧戒」も、

ただ道徳的な事が額縁に飾る様に書かれている訳ではなくて、

 

厳しく言うなら、そういった行動の制御も出来ないのなら、

「坐る以前の話でしょうよ」と言う話になって来ると思います。

 

武術でも、「木刀」と言えど「剣」なので、「またぐな」と言われたり、

「道場に入る時は礼だ」と言われますけれど、

 

「そんな事どうだっていいじゃないか?練習と関係ないでしょ?」

と言っても、実は練習はもうそこから始まっているのでした。

 

あはは(^^)。軽くではなくなってしまったかも・・。

ここからが本日の本題です。

 

「ヨガ哲学」を勉強することは、そんな「ラージャ・ヨーガ」に対し、

一般的には「ニャーナ・ヨーガ」と呼ばれたりしますよね。

 

これも本当はサンニャーサー(出家者)が進む「道」ですが、

一般的には「知識を勉強すること」を指している事が多い様です。

 

ただ「知識を勉強する」と言うと、

私達は学校で勉強するイメージがありますし、

 

先生によっては、「知ればいいのだ」を強調するあまり

(先生はもっと深い意味で言っているとは思いますが・・)

 

生徒は「聴いていれば良いのだ」と思いがちです。

 

ですが「ラージャ・ヨーガ」が8段階で示された様に、

実は「ニャーナ・ヨーガ」にも3段階があって、

 

それが「シュラバナ・マナナ・ニディディヤーサナ」です。

日本語で言えば「聴聞・熟考・瞑想」でしょうか。

 

先生の話を聴くのは、第一段階の「聴聞」(シュラバナ)で、

それはただ脳細胞に「知識」を入れただけですから、

 

自転車の乗り方を幾ら座学で勉強したところで、

ちっとも乗れる様にならないのと同じ様に、

 

「身体に落とし込む」のと同様、知識の場合には「腑に落とす」

と言う作業がどうしても必要になって来ると思います。

 

それが「熟考」と「瞑想」です。

 

実はそっちが大事ですから、もちろん「聴く」ことも大事で、

それが無いと何も始まらない訳ですけれど、

 

「ヨガ哲学」を少し勉強しただけでは、

ただ知識欲を満たしただけで、「知った」ことにはなりませんし、

 

逆にそれで「分かっちゃった」と勘違いしてしまうと、

その「勘違いした知識」でミスリードされてしまうかもしれません。

 

実はこれ。武術の世界にも存在していて、

上達の3段階は「習・工・錬」だと言われます。

 

「習」とは、先生から習うこと。

「工」とは、工夫すること。

「錬」とは、実践すること。

 

「聴聞・熟考・瞑想」と恐ろしく似て居ると思いませんか?

 

もう一つおまけに仏教には、

「聞・思・修」と言う言葉もあります。

 

「聞」は先生から聴くこと。「思」は工夫すること、考えること。

「修」は実行することですから、これも全く同じですよね。

 

「聞いて・考えて・実践する」その繰り返しだと言う訳です。

 

私達現代人は、余りに「実用書」の様なノウハウ本に慣れてしまって、

直ぐに「方法論」に走りがちですよね。

 

武術も例外ではなく、初心者の人ほど、

「先生、早くコツを教えてください」と思う人も多い様です。

 

やって行く内に「そういうものじゃないんだ」と分かるのですけれど、

やっぱり早く上手くなりたいのですよね。^^;

 

短気で昔かたぎな先生なら「コツなんてあるか!」と、

怒られてしまうところだろうと思います。

 

私の武術の先生は、そんな中でも、すごく丁寧に、

「何故そうするのか」と言う理合の部分まで話して下さり、

 

その上で「よく見ててよ」と言いながら、ゆっくりとした動きで、

しかも誇張して、駄目な見本と良い見本を実演してくれます。

 

そこまでして下さっても、自分が理解できるレベルに上がらないと、

駄目な見本と良い見本の違いさえ、分からなかったりします。

 

「ヨガ哲学」も、きっとそうだろうと思いますので、

そこは「覚悟」が必要かもしれません。

 

「本気」でやるならの話ですけれど。^^;

 

結局は「近道」なんか無いんだと言う事でしょうか。

 

私が言いたいのは、実はここからで・・。(前置きが長過ぎ!)

これって武道やYOGAに限らないと思うのですよね。

 

例えば、誰もが健康で暮らしたいと願うと思うのですが、

「食事法」や「健康法」にも言える事だろうと思うのです。

 

私達は「病気にならない〇〇健康法」と言う様な本を読み、

効果が薄ければ、「じゃあこの健康法、あの食事法」。

 

TVの情報番組で「この食べ物がいい」と言われれば、

スーパーで品切れになる程、飛びついてしまう訳でしょ?

 

それって直ぐに「コツ」を聴くのと一緒ですよね。

 

「聞いて・考えて・実践する」を言葉を替えれば、

「知る・考える・行動する」になると思うのですが、

 

言ってみれば「考える」という段階をスッ飛ばしてしまう訳です。

 

「考える」というのは、自分で調べてみるも含みますし、

自分で情報の善し悪しを判断する事も含みますし、

自分の体には何が一番いいのかと考える事も含みます。

 

それをしないから、医療で言えば

次から次へとドクターショッピングしてしまったり、

 

西洋医学が駄目なら東洋医学だ、自然療法だと、

情報に振り回されてしまうのではないでしょうか。

 

偉そうな事は言えませんけれど、病気が治って行く人とか、

健康になって行く人って、もっと主体的な気がするのですよね。

 

「どうしたら良くなるだろう?」と自分でも調べて、考えて、

納得した上で実践するから、効果も上がるのではないでしょうか。

 

病院や薬も利用するけれど、決して医者任せや薬任せではなくて、

最終的に治すのは自分なんだと、分かっている気がします。

 

それはどんなダイエット法であれ、食事法であれ、

健康法であれ、同じなんじゃないかと思うのですよね。

 

どうして健康を害したのか、どう変えればいいのか、

「考える」方が大事ですし、「実践する」事の方が大事ですよね。

 

「聴いたら考える」・「考えたら実践する」。

 

そんな「知る・考える・行動する」の3ステップは

どんな事でも変わらないのではないかなぁと・・。

 

それを繰り返すしかない。

途中をスッ飛ばして「楽しちゃ駄目よ」と。(^^)

 

「楽(らく)」と「快(かい)」は違うんだ。

 

オリンピックのメダリスト達も、アナウンサーに

「この5年間はどんな5年間でしたか」とインタビューされて、

 

「正直苦しい5年間でした!苦しい事の方が多かったです」

「でもだから今があると思う」みたいな事を言う方が多かったですよね。

 

練習を重ねるアスリートならではですけれど、

それは何もアスリートに限らないのではないかなぁと・・。

 

「楽」したっていいんですよ?どうでも良いことであるなら。

お掃除ロボットを使えばいいし、レンジでチンすればいい。

 

でも大事な事は「楽」しちゃ駄目なんじゃないかな。

 

どんな事ににも「ステップ」というのは存在していて、

今日はそんな「段階を踏む」と言うお話なのでした。

 

本日もお読みいただき、感謝です。