小説キャンディキャンディを読んで | bleu-vert-et-bleuのブログ

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好きなもの、マイブームなどを思いつくまま綴るブログ
今の一番のマイブームはキャンディキャンディ!

好きなことは
絵を描く、展覧会、漫画、アニメ、ギター、読書、旅行、映画、食べることなどなど

 住所のある自治体以外からの書籍を借りられるとフォロワーさんに教えていただき、いつも利用する図書館で聞いてみたところ早速取り寄せしてくださった。

 

読むことは叶わないかと半分諦めていたその本「小説キャンディキャンディ」を2週間待っただけで借りることができたのです照れ


その自治体には初版と新装版の2種類があるというので、では両方ともお願いしますとしていたところ、2部同時に手元にやってきた。滝汗(装丁の違う同じ本を同時に借りてしまったわけです)


注意書きがカバーに書かれていて、そのカバーも2重になっている。


他の自治体が所有する本なので、返却も必ず窓口で返却すること、1日でも過ぎたら今後しばらく貸出ができないことなど厳しく注意を受けました。

というわけで、さすがにカフェなどで読むのも気が引けるなあと、腫物扱いで自宅で読んだのでした。

さて、一読した感想を取り急ぎ、ざざざと記しますが一言でいうと、


 

なるほど・・滝汗



ブログ主は漫画から40年近く経過してFinalを読み、戻ってこの小説を読んだ経緯。

気になった点は下記2点です (※あくまで個人的意見であることご了承ください)

1)キャンディの前向きさ/気持ちの切り替えの早さ

 

漫画のキャンディのほうがもうすこしナイーブに描かれていたように感じました。

この物語は「少女の成長の物語」というのが主題ということで、その点においてはキャンディの体験はすべて成長の糧となるため、過去の2つの恋愛もそういう意味合い、つまり青春の1ページになるのですが、

子供向けに書かれた小説を大人向けに書き直したからか、キャンディの言葉からあまり悲壮感のようなものは伝わってこなかったです。

2つの恋愛の幕引きはどれも普通では体験することが少ない死を含めた重いもの、アンソニーは目の前で死んでしまいましたし、テリィに関してはスザナの自〇未遂等を含めた設定でした。


アンソニーもテリィも若いなりに相当の覚悟をもって愛していたはずなので、彼らの気持ちを考えると、どうもキャンディの苦難や彼らに対する愛情の深さが掴みづらかったです。

また出せなかったスザナへの手紙にあった「負けたと思った」という表現。

 

これもキャンディらしからぬ言葉とも思えました。スザナのほうが自分より上であるということを伝える励ましの言葉と思います。ただ、高潔なキャンディとテリィの選択の重さが霞んでしまったような…


そして、漫画のダメ出しのようでテリィが気の毒に感じました。


2)アルバートさんとの関係性は漫画エンドと変わりない。むしろもっと匂わせていた。


ブログ主はマンガの結末は、キャンディがアルバートさんとの恋を予感させて終わったと捉えていました。


この小説では、漫画よりアルバートさんを養父であるとしながらも、親子の愛だけでなく、恋愛要素の含みが増えていました。

それは別の言い方をするなら、書いた時点では、ストーリーエンドでアルバートさんとの恋愛要素を無くしてしまいたくないということ、アルバートさんが特別だということです。

養父でありながら親子愛と性愛の両方を持たせるほうが物語として深みが増すからということもありますし、アルバートさんのような男性が少女にとっては理想の男性像であるとしたかったのかなと。

アルバートさんに恋愛要素を持たせるための工夫が所々されていました。


その一つとしてアンソニーへの手紙の中で、アルバートさんに「親類」という言葉を使っていることも気になりました。

初恋であるアンソニーに叔父様という表現を使用しなかったのは、アルバートさんを恋愛対象から外さないためと感じられました。(Finalでは「叔父上」となっていました真顔

親類ってステアやアーチー、ニールと同列です。

 

全員恋愛対象ではないですか。真顔

 

叔父様だからアンソニーに似ていたわけですし、初恋のひとの叔父様ですから、叔父上として書いてしまうと急に家族の含みが強くでてくる。

ブログ主にとっては、アルバートさんは素敵なのですが、養父であり初恋の人の叔父様であるという設定が子供のときからどうしても引っかかるところでした。

でもそこをどのように捉えて読むかは読者に委ねられていますので、コメントは控えたいと思います。

二人の書簡のやり取りからは、キャンディよりもむしろアルバートさんからのキャンディに対する愛情が親子愛と性愛の両方を含んでいると感じられました。

特にアルバートさんの最後の言葉は、将来自分がアードレー家の当主として役目を果たせるようになった時は、色々と自由にできるようになると思う、その時キャンディどうする?という含みを持たせていると受けとりました。

アルバートさんはハイジのおんじや赤毛のアンのマシューのように、高齢でどこまでも包み込む父性の要素だけでなく、あしながおじさんの妙齢で恋愛対象となりえる設定だからなんですよね。

いずれにせよ、過去の先生のエッセイや作品などを色々と読んだ後にこの小説を読んだからか、アルバートさんとの恋愛の可能性を払拭したくなかったのかと思ったのかも。

こうしてみてみると、Finalが書かれたことはすごく意味があることだったと今更ながら感じます。


漫画になかった加筆部分も沢山ありました。

 

テリュース•G•グランチェスターのGをゴリラのGと想像したキャンディに夜中読んでいて声出して笑ったのでした。


ゴリラって何よ(笑)