「月が綺麗ですね」「そうですね、僕はタカです。」

スタジオ終わりからミーティングを終え
すっかり夜になった街をフラフラと歩いていた。

満月から少し欠け始めた十六夜

きっちり区画整理された住宅街を貫く一本道、眼前の長方形に切り取られた空に白銀に輝く月を見る。
十六夜月(いざよいつき)は「不知夜月」とも書くらしい。
一晩を明るく照らし続けるので、夜を知らない月という意味なのだろう。

秋の月というのは特に素晴らしい。

雲は高く、遥かまだらに夜空に薄いモザイクをかける
それを照らす月の周りには虹色の光環が淡く朧げに夜空を彩る
雨上がりのアスファルトに滲むガソリンの虹色によく似ているな、といつも思う。

そんな月にまつわる話でもしましょうかね。

-------------

「I Love you」=「月が綺麗ですね」

有名な逸話にこんなものがある。

夏目漱石はかつて英語の教師であったが
生徒の1人が「I love you」という言葉を「我君を愛す」と翻訳した際に

「日本人はそんなことを言わない、
"月が綺麗ですね"とでもしておきなさい」

と教えたのだという。


このエピソードは文献に残っている訳ではないので都市伝説に近い後世の創作ではないかという話もあるが
夏目漱石が本当に言った言わないに関わらず、文豪が言い放ちそうな納得のエピソードであることには間違いない。


何とも日本人らしく婉曲された奥ゆかしさと情緒のある詩的アイラブユーだろう。


最高にキザでクールで、ロマンチックじゃないか。


「愛」だなんて情熱に満ち溢れた感情を幾重にも包んで、くるんで、隠して、飾って、削いで、回りくどく、それはもう回りくどく届けるのである。

火鉢の中で恥ずかしそうに灰に埋もれた炭に手をかざした時のような、優しい温もりと慈しみを感じる。

この時、月というアイテムを介すことで生まれる想像の余地にこそ侘び寂びがあるというものだ、日本の心ここにありといった具合に。



「月と同様アナタは綺麗だ、愛してる」

「こんなに素晴らしい月をアナタと一緒に見ていることが嬉しい、愛してる」



他にも幾らでも意味は作れる、そして隠せる。
重要なのは

「月が綺麗ですね」
(それってつまりこういう事なんです)
「つまり、あなたを愛してる」

という構造の「月が綺麗ですね」という上の句だけを読んで

(それってつまりこういう事なんです)という行間を想像してもらう

そして「あなたを愛している」という下の句の書かれた札を受け取ってもらう、いわば百人一首的な遊び心に満ちた言葉だということなのだ。


つくづく、ウィットに富んでシャレが利いている。

-------------

これに対する有名な返しが、「死んでもいいわ」だそうだ。


これまた文豪、二葉亭四迷がロシア文学・ツルゲーネフの中編小説『アーシャ』の翻訳として出版した『片恋』に書かれた一言らしい。
まあ、当然のように読んでないのだが。

 これも「I Love you」の意訳であるという情報が流れているようだが、実際には違うらしいのでご注意を。

こちらのブログから情報引っ張らせてもらいました。

要約すると

「ваша」=「Yours」=「あなたのもの」


という一言を「死んでもいいわ」と翻訳した事に由来するそうだ。

これもまたシャレの効いた、素晴らしい翻訳だ。


「あなたのものよ」=「全てを捧げても構わないわ」=「死んでもいいわ」

の構造である。

「月が綺麗ですね」
「そうね、死んでもいいわ」


これが文学系男女の告白の模範解答なのだ、実に高度なテクニックの応酬だ。

百人一首というより、もはや文豪カードバトルである。手持ちの文学的知識の札を切り合って恋の駆け引きを楽しむのである。


トラップカードには竹久夢二
能力:「宵待草」
効果: 今宵も月は出ずに恋は破れる。
また漱石の「こころ」から、親友の裏切りと叶わぬ恋の病によって自殺した「K」が墓地へ送られる。

という男の子みたいなしょうもない妄想はやめておくとして。


もしも、そんなやり取りをしている男女を水辺で目撃したら、心中でもするんじゃないかとヒヤヒヤするだろう。

-------------

音楽をやるものとして一つ、この流れに沿った上手い返しを挙げるとすれば


「私を月に連れて行って」


だろう。

これはジャズの定番曲「Fly Me To The Moon」から取っている。

数多くのアーティストがカバーをする超有名スタンダード・ナンバーだ。

僕らの世代で言えば新世紀エヴァンゲリヲンのエンディングに使われていた事も馴染み深い。

1964年にフランク・シナトラがカバーしたことで爆発的にヒットしたのだが
当時、アポロ計画が進んでいたアメリカの時代を象徴するテーマソングのような扱いがヒットにつながったらしい。
アポロ10号、11号にもシナトラのテープが積み込まれて本当に月に届いたというのもエピソードとして最高クールだ。


ちなみに僕はジュリー・ロンドンのカバーが好きだ。
最高に甘くセクシーである。



1954年に作詞家/作曲家であるバート・ハワードによって作られたこの曲の原題は"In other words"

「言い換えると」である。

それを和訳してみると
-------------

Fly me to the moon
Let me play among the stars
Let me see what spring is like
On a-Jupiter and Mars

私を月に連れて行って
星々の中で遊ばせてほしいの
火星や木星にどんな春が訪れるのか見せてほしいの

In other words: hold my hand
In other words: baby, kiss me

それって 手を握ってほしいってことよ
つまりね キスしてほしいって意味なのよ

Fill my heart with song
And let me sing for ever more
You are all I long for
All I worship and adore

心を歌で満たして
もっとずっと いつまででも歌わせて頂戴
貴方を夢見て待ち焦がれてるのよ
貴方だけを慕っているのよ

In other words: please, be true
In other words: I love you

それって 真実に変えてほしいっことよ
つまりね 貴方を愛してるってことよ

-------------

といった具合になるだろう。


「私を月に連れて行って」=「I love you」


ロマンチックで詩的な表現によって広げに広げられた世界を
「つまり、貴方を愛している」と締めくくる数学的公式にも似た美しさが詰まった歌詞である。


初めの夏目漱石の話に戻すと


「I Love you」=「月が綺麗ですね」

である。
そして"Fly Me To The Moon"では

「I Love you」=「私を月に連れて行って」


つまり

「月が綺麗ですね」
「そうね、私をあの月へ連れて行って欲しいわ…」


これが僕が考えうる最大限までウィットに富んだロマンチックな告白シーンだ。



こんな会話が聞こえてきたとしたら眼球の裏から爪の先まで鳥肌が立って、髪の毛は全て抜け落ち、血反吐を吐いて死んでしまうだろう。


死因はロマンチック中毒である。


無残にも事切れた僕のしぼんだ風船のような亡骸に気付かない二人は
白く輝く月明かりに照らされ見つめ合う。

一陣の風が2人を撫でた、男は少し乱れた彼女の髪の毛を耳に掛けてあげると口を開いた


「…キスしていいかい?」
「えっ…でも恥ずかしいわ」


男は彼女のうるんだ瞳に映る十六夜月を見てこう続けたのであった。


「なあに、誰も見ちゃいないさ…お月様以外はね…」


僕の死体は跡形もなく消滅していた。