国鉄旅客輸送今昔 38 ワッペン列車 2題 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

みなさま、おはようございます。
今日もしばしお付き合いください。
今日は、ワッペン列車のお話をしてみたいと思います。

高速道路が今ほど普及していなかった昭和40年代、長距離輸送も国鉄の独壇場でした。
特に、日本列島民族大移動?と揶揄された、盆・正月という時期には多くの臨時列車が増発されるもそれでも座席を確保できないといったこともありました。
人気列車の場合、指定席は一人1枚だけといったことも多く、買うために3日ほど前から駅に並ぶといったことや、夏冬には、駅前にテント村が出来るというのも当時の風物詩でした。

大阪駅前や上野駅前に大テントが設置されて夜行列車を乗車するための行列が出来たというのも今では考えられないことですよね。

いまなら、携帯・スマホから乗車券を購入し指定席を予約する時代ですから。

そんな昭和40年代、少しでも乗客の不便を解消しようと企画されたのがワッペンによる乗車整理券方式でした。
この頃は、ワッペンとか、ペナントといった類が流行った時期で当時子供だった私たちの間でもワッペンは人気でしたし、シールなどもあったように記憶しています。
子供ですから、シールなどを貼ってみたくて、箪笥に貼って怒られたものです。苦笑

 

このアイデアは東京鉄道管理局局長だったかの発案で上野で最初に導入されたようで、その当時のワッペンの画像を参考に書いてみたのが挿絵のワッペンです。

ワッペン列車は、性格上は整理券であり座席を指定するものではありませんでしたが、座席を保障するものでした。

事前にワッペンを列車の定員分だけ準備しておき事前に配布、当日はワッペンを持っている人が優先的にテント村から案内されて乗車できるというシステムだったそうです。

当時の記録を見ると、徹夜して指定券を買うために並んだものの、指定券が売り切れとなって泣くになけないといった記事が良く出ていまして今とは比較にならないほどに鉄道の混雑が大きかったことがうかがわれます。

実際には、当時よりも輸送力だけでみると現在の方が圧倒的に大きくて、東京~大阪間などは10分おきに新幹線が出発するにもかかわらず時間帯によってはほぼ全列車満員というのは、ちょっとびっくりしますがそれだけの需要があるというか需要が掘り起こされてるといえますよね。

昭和40年代、今と比べれば輸送力もまだまだ貧弱だった時代、年末年始を中心にこんな列車が走っていたこと思い起こしていただければ幸いです。

昭和40年の時刻表から
23:20、急行「出羽」の表示を見ることが出来ます。

 

もう一つのワッペン列車は、急行フラワー号、

また、昭和42年2月から、早春の房総線へ「フラワー号」という臨時列車が運転されたそうで、こちらもワッペン列車として活用されたと、国鉄の部内誌、国鉄線に記録されています。

運転開始日が2月11日というのも驚かされますが。それよりも乗車率の高さに更に驚かされます。

かなり列車としては好評であったようで、家族連れ等の利用が非常に多く、目的は十分に果たせたとしています。

詳細は、又別の機会にでもさせていただこうと思いますが、高速道路も無く、自家用車も十分普及していなかった時代を感じることが出来ます。

 

この列車は、南房総を一周する臨時急行で日帰り旅を目的とした列車で詳細は昭和42年2月の時刻表がちょうど手元にありましたので確認しますと、フラワー号という愛称で、【帰路は休日内房】、新宿を朝7:29出発、安房鴨川11:01着、安房鴨川14:26発、18:08 新宿着というダイヤで運転されたようです。

スキャナーが安物のため、見苦しいのですが左側にフラワーの文字が見えるかと思います。
帰路は、フラワー号と異なりますが、同じ列車の返しになります。

フラワー号のワッペン

 

 

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