今日も思うことを思うままに書かせていただこうと思います。

「教育」という言葉の意味を調べてみますと。

古くは中国の古典、 『孟子』の、君子の楽しみの一つとして、「天下の英才を得て、これを教育する」これが最初の語源だといわれています。

 

 

ただし、ここでの教育というのは、現在の教え育むという意味ではなさそうで、日本で教育という言葉が浸透していくのは、明治時代になってからだと書かれています。

そうした意味では、「教育」という言葉が浸透して来たのは比較的新しいことだと言えます。

 
本日は、教育の歴史を語るわけではなく、教育というのは何かを今一度私の言葉で語ってみたいと思うわけです。
教育者でもなく、学者でもないものが底の浅い思想を見せつけるなとお叱りを受けるかも知れませんが、浅い思想であったとしても、それを批判するだけでなく、そこから、自分ならどう考えるか。どこに共感できるが、どこに共感は出来ないと言った批判をしていくことで、知力は高まっていくし、それを積み重ねることで知性は磨かれていくと思うわけです。
 
偶々、twitterを見ていたら、古典を学ぶよりも金融経済を挙いくすべきではないかと発言したという政治家の意見をしたという書き込みを見たのですが。
お説として、金融教育というのも大事かも知れませんが。そのとき思ったのは、そうした教育をするに際しても、その基礎となるべく読み書き算盤ではないですが、そうした基礎が出来ていなければいけないのではないかと思ったわけです。
 
私たちは、建物を建てるときに基礎を作ってから建てるといことを知っています。
現在のマンションなどの建築現場を見ていると、地盤を固めるために最初に深く掘って、更に地盤をコンクリートで固めて基礎をしっかり作ってから、鉄骨を建てていく。
そんな作業が行われるわけです。
南千里の駅西側に吹田市の消防庁舎建設工事が行われていますが、最初の頃はただひたすら穴を掘っている・・・そんな印象でした。
その後、生コンでしょうか、そこから注入しているようで、更にあふれ出してくる地下水に大量の土砂を投入してと言うことを繰り返している、そしてやがて大枠を作って・・・最初の半年くらいはそんな作業ばかり続いて、いつまで経っても建物らしきものが見えないと思っていたのですが、やがて基礎の地下部分がほぼ完成したかと思ったらそこから先はあれよあれよという間に鉄骨が立ち上がっているわけです。
 
実はこれも、教育も一緒なんですね。
教育というのは、子供を学齢に応じていかに教育していくか。
これが大事なわけです。
算術の基礎、読み書きの基礎・・・こうしたことが理解できて初めて、金融工学も統計理論も理解できるわけです。
逆に言えば、算術の基礎も、読み書きの基礎も出来ないままで金融工学や統計理論を学んだとしても、それはテクニック(技巧)を覚えただけであり、その本質を学んだわけではないわけです。
 
最近は、動画などで学ぶとかあらすじだけを読んで学んだ気になると言う風潮も、いわゆるタンパが良いというのでしょか。
そうしたことがもてはやされていますが、それは先ほど申し上げたとおり、基礎を学んだわけではなく技巧を学んだだけなんです。
技巧と言うよりもテクニックという方がわかりやすいかもしれませんが、このテクニックにはそこに作り手の意思が強く入りますので、ある意味そうしたテクニックを教える人の手の上で踊るだけとなります。
批判もできず、改良も出来ず・・・流れが変わればたちまちどうにも行かなくなる。
 
それではダメなんですよね。
地味で目立たなくとも、時間はかかっても昔ながらの読み書き算盤と言われる基礎をしっかり行う。
これが大事な訳です。
 
基礎がしっかりしていれば、全く新しい分野であっても、さほど無理せずに学ぶことが出来るし。
基礎がしっかりしていれば、十分金融工学も統計理論もそのとっかかりを掴みやすくなるのです。
とっかかりを掴むと言うことは、そのもの毎の本質を掴むと言うことなのです。
 
基礎がしっかりしていない建物は張りぼてで、壊れ易いように。勉強も基礎がしっかりしていないと結果的にテクニックだけで終わってしまう。
そんな気がします。
 
子供の将来のためにも、基礎教育はしっかりと行っていきたいと思うこの頃なのです。