松下通信を支えた50人:河原滋 | 松下通信を支えた50人

松下通信を支えた50人:河原滋


20102月某日3

原田は続いて情報システム事業を担当した河原滋を取り上げた。

昭和30年代に日本の電機各社が大型コンピュータの開発を進めていた中で、松下電器もその1社であったことは良く知られている。グループの中で開発を進めていたのは松下通信で、事業化の段階まで来たところでチェースマンハッタン銀行副頭取の助言を受けた松下幸之助の指示で、昭和39年に開発を中断し事業撤退を決断した。電子計算機事業からは撤退したものの、松下通信はそのリソースを生かしてミニコン、パソコンへと進化させると共に、様々な情報システム事業へと展開した。

こうした一連の流れの中で情報システム事業を成長させ、松下通信の社会的評価を高めたのが河原滋だった。役員としては1976年から4年間取締役、4年間常務取締役、2年間専務取締役を担った。

「河原滋が担当した頃はデータ制御事業部と呼ばれていました。情報システム事業として最も重要視したのは交通管制の分野で、交通管制システムは神奈川、東京、千葉、愛知での採用に続き、山形、新潟、愛媛、長崎の各県警本部へも納入を進め、海外への展開も実現しました。その次に力を入れたのは郵政分野で、貯金端末装置、書留複写機、書留総合システムへと展開しました。証券分野では、株価表示装置、大型証券ボード運送分野ではヤマト運輸、佐川急便に集荷情報システムを開発納入しました。POS分野として日本マクドナルドや米国マクドナルドへ独自のPOSシステムを納入したのもこの時代でした。放送局向けの大型放送システムやタクシー配車システム、交通局向けの自動放送システム等は他の事業部が担当しましたが、これらのシステムにも彼らのミニコンが使われています。」

原田は次に端末としての計算機本体の話を進めた。

「計算機本体は、ミニコン、パソコンへと進化を続け、特にミニコンは多くの大型システムでの中核としての役割を果たしました。気の毒なのは事業化の途上において力を入れたIBM向けパソコンの開発に成功したものの、生産については松下電器に移管されたことでした。この件は開発部隊にとっては大変な挫折となり、当時全員を集めて小蒲社長からの経過説明を余儀なくされる程でした。その後も、汎用のパソコン「マイブレーン」やワープロ「パナワード」を事業展開するものの松下電器での事業一本化の方針が決定され彼らにとってはさらなる苦い経験となりました。松下電器のラジオ・音響事業が後退し代わりになる事業を模索していたことも背景にありました。

原田の説明に、松下電器の判断は時に松下通信にとって厳しいものですね、と中松は同意を求めた。

「データ制御事業部ではFDDの生産も担当していましたが、累計生産が10万台を超えて綱島工場が手狭になり、花巻に工場を新設してFDDの生産を移すことになりました。この時、事業部を2つに分け綱島は情報システム事業部花巻はメモリー装置事業部となりました。」

 

2週間後に続く

 

 

 


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